お昼にたまたま通り掛かりのマクドナルドに入った。別にハンバーグが好きなわけではなく、ここでは公衆LANが使えるので、外出時にはよく利用する。
注文するのは決まって「照り焼きハンバーグセット」。照り焼きハンバーグとポテトフライとホットコーヒがセットになっていて、しめていくらだったっけ、500円くらいだったかな。いろんなメニューがあるが、迷ったこともない。
カウンターで支払いも済ませ、トレイに載ったセットに気を配りながら二階に上ると、お昼時もあって結構お客が入っている。見渡すといちばん奥まったところで一人パソコンをしている男がいて、そのすぐ手前には30前後の同じ歳格好の女性たち10人前後が車座になってハンバーグをぱくついている。ちょっと煩さそうなので避けたかったが、パソコンの男の前しか席が空いていない。女性たちのすぐ近くだ。
昼食も手短に済ませてパソコンを開け、メールの送受信を始めるころになると、グループの女性たちも昼食を済ませたのか、がぜん煩さくなりだした。どうも保育園に子供たちを預けた若い母親たちの集まりらしい。
何をお喋りしているのか、こちらも関心はないし、パソコンに気をとられているのでよくわからなかったが、嬌声と一斉に発する笑い声の凄まじいこと。窓も割れんばかりだ。それも一度や二度ではない。小一時間ばかり、まるで店内は我が物顔、ほかにもお客がいるなんて気遣いはまるでない。パソコンの男は早々とパソコンをたたみ席を立ち、前でひとり座って昼食をとっている若い女性はイヤホーンを取り出している。
こちらも早く店を出たかったがそう言う訳にもいかず、じっとじっと我慢。よほど店の人に言おうと思ってもみたが、この騒々しさが店の人にも聞こえないわけがなく、この無関心さは店の人も同人類でこちらが異邦人になりかねない。
いちど中国で同じような場面に出くわしたが、その時は別の客が怒鳴り込んで行って静かになったことがある。
別に怒鳴り込まなくてもいいが、注意してもはたして聞き入れてくれるものか、そんな勇気もないし、どうせ毛虫扱いが落ちのような気がする。
公衆道徳の低下が叫ばれて久しいが、いつの時代ににもこういう手合いがいたのか、今の時代の特徴なのか。ともかく店の側の対応があってもよいのにと、苦々しい思いでやっと店を出た。
1995年1月17日
明け方、激しい揺れに目が覚めた。家がきしみ、つぶれるんではないかと思った。
すぐにテレビをつけると、画面にテロップが流れ、阪神間で震度6前後の地震が起きたと報じている。奈良でもこれだけの揺れだからよほど大きな地震なんだと思った。
間もなく画像が飛び込んできて神戸市内の様子を映している。大きな煙が数か所から立ち上っている。死者が出ている模様。初めはそんな調子だった。
朝食もそこそこに身支度を整えてすぐ家を出た。阪急武庫之荘の教室が気がかりだ。
近鉄は動いていたが、大阪市内の地下鉄は御堂筋線が不通、堺筋線は動いているというので近鉄日本橋から乗り換え、南森町までそれで行った。そこから阪急梅田駅までは歩いて30分ほどだが、途中のことは全く覚えていない。
阪急梅田駅に着くと、紀伊国屋書店の前にある大画面のテレビの前は人だかり。大画面にはやはり神戸の様子が空から写っていて、死者15人と出ている。
駅の張り紙には、「ただ今神戸線は地震のため不通です。」と出ている。ただ今不通なんだから、待てばやがて電車も動くだろうと待つこと2時間。
一向に電車が動く気配はなく、テレビ画面に、死者が50人、100人、200人とみるみる増えていく。これはただ事ではない。周りの人たちにもやっと事の重大さがわかり始めたようだ。
もう電車は諦めて、家に帰って車で行こうと思った。
2時間ほどかかって家に帰り、車に飛び乗って阪奈道路を通り、国道1号、国道2号と辿ろうとしたが、京橋近くの国道1号あたりでもう大渋滞。普段ならそこから20分あたりで行ける国道2号の大阪市内桜橋まで3時間はかかっただろうか。途中、道路脇に立つビルの窓ガラスがいたるところで割れている。もう自動車は1㎝も動かない。後ろを振り向くと、岐阜だとか愛知だとかのぼりを立てた消防車がサイレンだけを流しているがこれも全く動けない。もう車、車で消防車も動けないのだ。諦めた。
普段でもここからさらに小1時間はかかる武庫之荘まで行けるはずがない。
その日の深夜やっとの思いで家に帰りつけた。
新年に思うこと
山から
もしも、愛するリリーよ、お前を愛していなかったら、
このながめは私にどんな喜びを与えてくれるだろう!
だが、もしも私が、リリーよ、お前を愛していなかったら、
ここかしこに幸福を見い出すことができようか。
いまだに諳んじているゲーテ詩集の中の一つである。
自分の感情や感動をどう表現すればいいのか、多感な折のもどかしさを的確に言い表してくれたのがこの詩集だ。ドイツ文学者の高橋健二先生による日本訳が素晴らしい。
日本にも短歌や俳句、そして明治以降の近代詩があってそれなりに素晴らしんだが、恋歌にしてもどうも日本のそれは個人の領域に留まっていて普遍性がないというか、広がりとか深さが感じられない。感情細やかなのはいいんだが魂をゆすぶられるほどの迫力がない。
だから、ぼくなどは文学にしても愛好したのは西洋文学であり、哲学もそうだった。
これは音楽や絵画、芸術万般にわたっていえることで、なぜなんだろうと思う。
ひとつには、受けた教育の影響も大きい。
音楽などはまず西洋音楽から学ぶわけで、日本古来の音楽、なんだろう?雅楽?民謡?筝曲?と今でもこんな状態で、ともかく日本の伝統音楽を学んだことがない。童謡にしろ唱歌にしろ洋楽で、オーケストラとかアンサンブルになるとなおさらだ。
そういえば、小学校のとき、音楽教室の壁に世界の音楽家の似顔絵が並んでいて、その中にひとり日本の滝廉太郎が載っていた記憶があるが、あとでベートーベンやモーツアルトの音楽を聴いて知ったとき、滝廉太郎といえば「荒城の月」しか知らないもんだから愕然としたことがある。
今にして日本の伝統芸術の良さがわかってきたわけだが、まだまだ「西洋かぶれ」から抜け出ていないことを実感することがよくある。
詩にしても、高校時代に萩原朔太郎の「月に吠える」がいたく気に入り、読書感想文でなんやら賞をもらったこともあるが、今は一編の詩も思い出せないどころか、ここに書いた作者名と作品くらいしか記憶に残っていない。朔太郎の少し後だったように思うが、上のゲーテの詩集ははるかに衝撃的で、その後も幾度となく読み返し、多くの言葉を学ん今に至っている。
小説にしても夏目漱石なんかもよく読んだんだが、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んだ時の衝撃力はまるで別次元だ。
こういう体験はぼく個人の特性によるものか、西洋と日本の文化の根底にある違いによるものか判らないが、これからの日本を考えるとき、文化面だけでなく、社会、経済、政治、外交、軍事、エネルギー、あらゆる面で、よって立つアイデンティティをよりいっそう明確にし、強固にしなければ、これからの国際社会の荒波を乗り切っていけないような気がする。
今の日本を見ていると危うさばかりが目につく。杞憂であればいいが。
新そばー朽木の里ー
京都白川通りを北に上ると高野川に出る。高野川に沿って国道367号を上っていくと寂光院や三千院で有名な大原の里に至る。今日はここが目的ではない。
この国道367号、俗に鯖街道というがこれをずっと先にたどると滋賀県高島市の朽木(くつき)の里に至る。街道筋には何軒もの鯖寿司を売る店があり、そばを打つ店がある。今日はその新そばを求めてはるばるこの朽木の里にやってきたというわけだ。
目星はつけてあった。というのも、11月の初めだったか、もう新そばが出ているのではないかと訪ねた店がある。ちょっとせっかちだったか、「お客さん、新そばはこのあたりでは11月下旬でなけりゃ出ませんよ。」と言われ、赤っ恥をかいた店である。旭屋とかいう店で駐車場も広く、店のたたずまいもいい。
12時少し前ということもあったし、ウィークデイということもあり客は誰もいない。
店に入ると上品そうな店のお上さんがメニューを持ってきたが、新そばはざるに限る。この辺り鯖寿司が名物だからそのセットもあるが、そんなのは目ではない。大盛りもあったが、群馬県の十割そばで大盛りをとり、食べ切れなかった苦い経験があったから、ひとまず並みにした。1370円也という中途半端な値段が気になったが、量もたっぷり、大盛りを注文せずによかった。色も少し青みを帯び、香りも心地よい青臭さがほのかに残る、これぞ新そばだ。
長さ3メートルくらい、厚さ10センチくらいはある一木造の欅のテーブル、小粋な木の椅子、そこここに置いてあるちょっとした調度品に店の嗜みが感じられる。
美味しかった。ちょっと寒かったけれども、今度はあったかいのにしよう。それにそれに、今日は特別、竹節の小さな碗にプリンであろうか、底には小豆が沈んだ京菓子が振る舞われ、香りの良いコーヒまでいただいた。
ここまで来た甲斐があったというものだ。大満足。
近くに「天空の湯」といういい温泉があるので、のんびり湯につかりながら今年最後の秋を見届けることにした。
12月1日
ご同輩に贈る詩
YOUTH
Youth is not a time of life-it is a state of mind; it is a temper of the will,a quality of imagination, a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity, of the appetite for adventure over love ease.
No body grows only by merely living a number of years; peoples grow old only by deserting their ideals. Years wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul. Worry, doubt ,self-distrust, fear and despair-these are the long ,long years that bow the head and turn the growing spirit back to dust.
Whether seventy or sixteen, there is in every being’s heart the love of wonder, the sweet amazement at the stars and the star like things and thoughts, the undoubted challenge of events, the unfailling childlike appetite for what next, and the joy and the game of life.
You are yang as your faith, as old as doubt ;
as young as your self-confidence, as old as your fear;
as young as your hope, as old as your despair.
So long as your heart receives messages of beauty, cheer, courage, grandeur and power from the earth, from man and from the Infinite so long as your young.
When the wires are all down and all the central place of your heart is covered with the snows of pessimism and the ice of cynicism, then you are grown old indeed and may God have mercy on your soul.
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Given to Mc Carthur some years ago by John
W. Lewist is based on a poem written by the late
Samuel Ullmann of Birmingham, Ala.
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青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。
若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、
安易(やすき)に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。
人間は年齢(とし)を重ねた時老いるのではない。理想をなくした時老いるのである。
歳月は人間の皮膚に皺を刻むが情熱の消失は心に皺を作る。
悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させ、
雲ひとつない空のような心をだいなしにしてしまう元凶である。
六十歳になろうと十六歳であろうと人間は、驚きへの憧憬・夜空に輝く星座の
煌きにも似た事象や思想に対する敬愛・何かに挑戦する心・子供のような探究心・
人生の喜びとそれに対する興味を変わらず胸に抱くことができる。
人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。
自然や神仏や他者から、美しさや喜び・勇気や力などを感じ取ることができる限り、
その人は若いのだ。
感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされる時、人間は真に老いるのである。
そのような人は神のあわれみを乞うしかない。
http://home.h03.itscom.net/abe0005/ikoi/seishunn/seishunn.htm
えのき氷
何曜日だったか、NHKに「ためしてガッテン」という番組がある。夜8時の番組で、この時間、受験生を看ているのでめったに見られないのだが、たまたま時間が空いたのかチャネルをひねるとこの番組だった。
話題は「えのき氷」という耳慣れない調理番組で、エノキダケ300gに400mlの水を混ぜてミキサーにかけ、ペースト状にしたエノキジュースを30分ほど火にかけてあとは冷やす。それを製氷皿に流して冷凍庫に入れると出来上がるという。
それを味噌汁に入れたり、カレーライスに入れたり、キノコご飯にしたり、とにかく何に入れても美味しく、中性脂肪は減るやら、余分なコレステロールは除けるやら、いいことだらけ。
その真偽はともかく、作り方も簡単だし、おもしろそうだし、さっそく翌日この「えのき氷」作りに挑戦とあいなった。
近くのスーパーに行くと二度びっくり。エノキダケが入口付近に山と積まれている。商魂たくましいというか、昨夜のNHK番組を知っての作戦に違いない。
普段はいくらで売っているのか知らないが、一袋300g位であろうか、58円は安い。ともかく3袋買って、勇躍家に持ち帰り、作り方を確認するためにパソコンを開いたら、あるはあるは、「えのき氷」の検索に引っかかるWebページがごまんとある。ぼくが知らないだけで、もうすでにこんなにも知られているんだ。
氷にするのは保存するためだそうで、製氷皿に盛った残りでさっそく野菜スープの出汁代わりにしてみた。味に鈍感なのか、テレビのタレント達が騒いでいたほどには美味くはない。まあしかし美味いんだろう。エノキダケの味は残っているし、若干甘みもある。
しかし思うんだが。誰がこんな調理法を考え出したんだろう。このことのほうがよっぽど気になった。キノコをジューサーで粉砕して、とろ火で長時間煮ると、美味しくてしかもキノコキトサンとかトレハロースが効果を出し、中性脂肪やコレステロールが減り、血液がサラサラになるなんて、額面通りにはにわかには受け取れないが、人の知恵には感服した。
たぶん多くの食品が、こうした人知の集積なんだ。歴史に名が残る発明発見とこうした衆知が合わさって今日の世界があることを再認識させられた。
落ちがあります。
3日後同じエノキダケの袋が98円になっていました。
TPPに参加すべし
TPPに参加すべきか否か、今や国論を二分して喧しい。
大まかに言って、輸出を生業とする産業界は参加に賛成。輸入によって打撃を被ると考えられる分野に人たちは反対といったところだ。
旗振り役は一方が経団連に対して農協といったところか。もちろん事情はそんなに単純なことではなく、医療、法律、介護、雇用など様々な分野に関わってくるわけで、大げさに「第二の開国」とさえいう人までいる。
この問題はもう1年以上も前から俎上に上っていたわけだが、このところなんだか駆け込み論議といった感がある。途中「東北大震災」があり、TPPどころではなかったという筋もあるが、果たしてどうか、多少はそんな事情もあったであろうが、日本特有の「盗人をとらえて縄綯い」が実態であろう。
かくいうぼくもTPPに関心を持ったのも最近で、メディアを通して知れば知るほど本当に難しい問題だとつくづく思う。
800%近い関税に守られている米をはじめ多くの農産物は手厚く国内で保護されているが、関税が取っ払われたら海外から安い農産物がどっと入り込んできてひとたまりもない。いやそんなことはない、品質や安全性が違うから大丈夫だという意見もあるが、多くの庶民はそうはいっていられない。多少品質が落ち安全性に不安があっても今やますます安いに越したことはないという台所事情だ。
日本農業を守るためという名目で「戸別所得補償制度」が実施されるそうだが、さらなる補償を手当てしなければ到底守り切れるものではない。ただでさえ保護に次ぐ保護で温室育ちの日本農業はますます自立できなくなること請け合いだ。
そのほか医療、法律、介護、雇用もそうだが、医療保険制度が崩れるとか、労働条件が厳しくなるとか様々な理由で反対するが、結局は国内法で何かと保護されてきた既得権益が無くなることで反対しているようにしか思えない。
大局的に見れば、これから先も輸出でしか生きていけない日本はTPPに参加し、むしろ積極的に貿易自由化の方向に向かうのが得策だと思う。
反対派はどう見ても既得権にしがみつこうとして国民的・国家的観点には立っていないようだ。国際社会の荒波に揉まれたほうがよい。
それだけではない。これから先の外交戦略の面からも、アメリカの魂胆はともかく、アメリカと手を結んでいくのが、対中国政策にも有効に作用する面があるように思う。
今の中国はやはり危険だ。
アメリカは日本よりも中国に関心があるからアメリカに傾斜しないほうが良いという意見もあるが、それは経済面だけのことで、思想信条面、国家体制という面では中国とは相いれないと思っていると思う。
私信 ーストレイシープさんへー
えらいことになってるんだね。
でもね、よーく考えなくちゃいけないよ。
一郎君をはじめ、来栖家の人たちがどういう人たちかよくわかんないけど、
至極平凡なことを言ってるんじゃないかなぁ。
平凡なことがたまには我慢ならないことってあるよね。
でもね、その我慢ならない平凡が、人が生きていく上で大切な真理を含んでいることもあるよ。
何も平凡に合わせろと言ってるんじゃないけど、
飛び出た人ほど、それが我慢できなくてなかなか理解できないんだよね。
夏の農道でよく目撃したんだけど、
ミミズがコンクリートの農道でたくさん干からびて死んでいるのね。
実にたくさんなんだ。
どうしてこんな炎天下の農道に出てくるんだろうね。
土の中でいるほうがよっぽど涼しくて居心地もいいだろうにね。
退屈したんかなあ?新天地を求めた勇者なんかなあ?
いろいろ考えてみるんだぁ。
いちど生物学者に聞いてみたいんだけど、不思議でたまんないよ。
でもね、我々人間だって、お天道様から見たらそんなミミズと同じかもしんないよ。
地道に地道に生きることは辛抱がいるよね。
「非凡なる凡人」て言葉、昔々学校の教科書に出ていていまだにこうして覚えているんだけど、
本当に非凡な人は、凡に徹し凡を制する人なんだよ。
凡と対立するようでは非凡になれないんじゃないかなあ。
うん、わかっているよ。
何も非凡を求めてるわけじゃないってんでしょ。
難しいよね。
できたら、何も壊さないで、そして夢を実現してほしんだよね。
ストレイシープさんへ
iPhoneと行く秋
いつからか、夜明けを待たず散歩に出る習慣ができた。そのときいつも手にするのがiPhoneである。こんな朝早くにまさか電話はあるまいに持ち歩くのが決まりになっていることもあるが、iPhoneから流れる音楽が明け行く風景に溶け込んでいく中、まどろみから覚醒していく心地よさを感じたいからだ。
iPhoneは音質がとても良くてイヤホーンなしで音楽を聴くことができる。仕込んだ曲はクラシックあり、演歌あり、懐メロあり、エスニック、タンゴ、シャンソン、アイリッシュ何でもありで、シャッフルしてあるから次にどの曲が飛び出すか知れたものではない。実に支離滅裂だ。歩調もそれに合わせて、ダンスの足取りになったり、スローテンポになってみたり、「悲しみのアダージョ」が流れ出したら足取りも重くなる。
やがて行く先に日が昇り始めると、iPhone内臓カメラの出番だ。このカメラも実に優れもの。画質は一眼レフにも劣らない。惜しむらくはズームが利かないことだ。
明け行く空の風景、道端に咲く花々、枯草、湖舟の釣り人、今は深まりゆく秋を追っている。
さあ、お天とう様、今日も一日、ぼくを生かしてくださいよ。