文藝春秋8月号

♪♪♪ 同期の桜 ♪♪♪

文藝春秋8月号は毎年買う。
芥川賞の後期発表作品が掲載されることが一つ。もう一つは太平洋戦争に関する特集が出るからである。
今年の芥川賞は玄人受けはするかもしれないが、あまり印象に残る作品でもなかった。
太平洋戦争関連の特集は今年は「太平洋戦争 語られざる証言」というタイトルで、有名人から無名の人まで何らかの形で今次大戦にかかわった人たちの証言集である。
1932年ロス・オリンピックの英雄バロン西の最期を硫黄島で見届けた海軍中尉、断末魔の戦艦大和で上官の切腹に立ち会った17歳の少年兵、敗戦翌日に特攻命令を受けた一人のゼロ戦パイロット、・・・。
どれもが昨日の出来事のように迫ってくるのは何だろうか。まるで自分がその現場に立ち会ったような錯覚さえ覚える。
尖閣諸島の問題、竹島問題、最近きな臭いニュースが絶えない中、のど元過ぎればの譬え通り、またまた愚かな方向に行きはしまいかと思う反面、ここで語られている壮絶さと比べりゃなんてことはないとさえ思ってしまう。こわいこわい。
32万人もの死者、行方不明者が想定される東南海地震のこともそうだが、現実は現実なんだがどことなく差し迫った現実とはとらえられない乖離性が人間にはあるような気がする。
実際に体験したり、直面しない限りのほほんとできるから、人間生きていけるのかもしれないが、だからまた同じ愚かなことを繰り返す、そんな大不条理を抱えているのも人間かもしれない。
しかし、今こうして生きていかねばならないし、生きていくには様々な困難にも立ち向かっていかねばならないし、個人も同じ、国家社会も同じ。
文藝春秋に毎年8月に特集されるこうした記事は、大いに意義があるし、大切なんだが、またどれだけの人が読むのかと思えば、杞憂が立ちはだかることも実感だ。
此岸と彼岸、仏教で語られるあの世の存在を、意識と無意識の中に混在させ、人は、人間は生きているんだろう。

超常現象?

 
30年前の話です。

生徒の強化合宿で四国の剣山に行きました。白い装束に身を固めた人たちも多く来ていて山岳信仰の山でもあるわけです。
バスでほとんど頂上近くまで行くんですが、後の登りがきつい。
やっと宿舎にたどりつき、旅支度を解き、部屋割も済んで夕食を待つひと時、ぼくたち教師はこれからの段取りなどを話し合うミーティングをしていました。
そこへ女子生徒たち数人がやって来て、中学3年生のA君がいじめられていると言うんですね。
さっそく行ってみるとA君たちと数人の男子生徒が車座になってトランプをしている。
A君にどうしたんだと聞くと「なんでもない」というんですが、おでこが真っ赤にはれていて、目の下には涙を流した跡がある。
突っ込んで聞いてみると、「ババ抜き」というゲームをしていて、A君はよく負け、その度におでこを指ではじかれる罰を受け、そうなったというんですね。
A君は言われるような「いじめ」を受けていたんではないというんで、安堵したわけですが、別れ際に何の気なしにA君に負けない「おまじない」をかけてあげようと、「ババ(ジョーカーですね)」をA君の両手の平に挟ませ、ぼくの右手の平をA君のおでこにあてて、「ババをKOROSE!と唱えなさい」と言いました。
そしてその場を離れ、再びミーティングに加わったわけですが、それから1時間ほどして、今度は別の生徒たち数人がやってきて、A君が不思議なことをする、見に来てくれ、と言うんですね。
ほかの先生たち数人と言われた部屋に行ってみると、A君を囲んでたくさんの生徒が集まっている。
聞いてみると、A君が「ババ」を百発百中当てるというんですね。やらせてみるとなるほど裏向けのカードからものの見事に「ババ」を当てる。
どうして?とA君に聞いてみると、
先ほどのことがあって、また「ババ抜き」ゲームを始めたんですが、今度はA君には絶対「ババ」が残らない。連戦連勝だったというんですね。そしてA君はみんなにこう言ったと言うんです。
「おれ、左の奴のカードを触った時、先生の言うとおり心で唱えたら、時々ビビッと電気が走るねん。あれババやで。」
信じられないみんなは、試しにカード繰ってA君に渡し、A君が裏向けにして手のひらに載せ、そこからカードを1枚1枚落として行くと、あるところで「これや!」というんで、そのカードを開けてみるとまさしく「ババ」。
何度やっても当たるんでうわさを聞いたほかの生徒たちもたくさん集まってきて、とうとうぼくたちに言いに来たというわけです。
ぼく自身もまたほかの教師たちも、初めはてっきり手品だと思っていたわけですが、どのトランプで試してみても、どうトランプを繰ってみても当たる。A君も手品ではないと真顔で言うし、A君はうそやはったりを言う人柄ではない。
もう周りの者はキツネにつままれたも同然、こんな不思議な体験はだれも初めてのことなので、合宿に参加した全員が知ることになったわけです。
 
当時、日曜のテレビ番組で、確か「奇人変人大会」というのがあって、口からカミソリの刃を飲み込んだり、やけ火箸を口の中で消したり、常識では考えられないようなことをする人が登場する番組があり、登場した人と推薦した人が賞金と白いギターをもらえました。 
合宿から帰って、A君をこの番組に出そうということになり、みんなで準備に取り掛かったわけですが、さあいよいよという段階になって、肝心のA君が「できない」というんですね。当たらなくなっちゃった。仕方なくこの企画を断念したわけです。

先ほども言った通り、A君は嘘やはったりを言う人間ではない。そのA君が手品ではないと言うのだから信じざるを得ない。 
でも不思議ですね。なぜこんなことが起こるのでしょう。ジョーカーとほかのカードの違いと言ったら、絵柄くらいの違いしかありません。
色の違いによる電磁現象なのか、使われている色彩原料の金属成分に放射性元素が含まれているかどうか、その違いによるものなのか、いずれにしろ計量しがたい違いだろうし、人間の指先にそれを感知する能力があるのかないのか、曰く不可解としかいい様がありません。
 
また、剣山という場所で起こった現象で、大阪に帰ってきたら出来なくなったのですから、修験者の場所であるということはともかく、その土地の何らかの影響もあるのかもしれません。
その日は積乱雲が非常に発達していて、例のトランプの最中にも雷鳴がとどろき、高山ですから稲妻が水平に走る光景を何度も目撃したような日でした。

皆さんはどうお考えですか。意見をお寄せ下さい。
また、皆さんにもこうした不思議現象を体験されたことがあればお聞かせください。

三つ違いの兄さんと・・・

 

山向こうにひときわ大きな入道雲が湧き起こっている。真っ白に輝くこの雲こそあの時見た雲だ。
「三つ違いの兄さんというて暮らしているうちに、情けなやこなさんは・・・」
大叔父の鶴沢友春の弾く三味線に合わせてぼくが語り始めると、居合わせた村の人たちから一斉に拍手が起こる。
拍手はすぐに収まり、語りに耳を傾けていた人達の中にタオルで涙を拭う人が出る。
小学校の2年生か3年生だった。
浄瑠璃の師匠であった大叔父に連れられて、お弟子さんのいる淡路島に出かけた思い出だ。
その年、夏休みが始まるとすぐ、大叔父がぼくに浄瑠璃を教えるという。
言われるがままお稽古を続けたが、不思議と違和感も苦痛も覚えない。
「筋がいい」と褒められたのかおだてられたのか、人形浄瑠璃「壺阪霊験記」を2週間ほどで叩き込まれた。
淡路島に連れて行って皆の前で語らせるといわれた時も、物おじもしなかった。
というのも、前の年、やはり大叔父に連れられて淡路島に行った時、浄瑠璃の発表会の後催される食事会の食事が忘れられないものになっていたからだろう。
蓮池に飼ってある鮒を何匹も取ってきて、村の人たちがさばき、それはそれは豪華なお膳になる。
子供のぼくにも大人と同じお膳が出て、何から手を付けていいのか迷ったくらいだ。
ぼくが語り終えた後もお弟子さんたちの語りが続き、やがて待ちに待った食事会が始まる。
幾部屋かの襖を取り払った大きな部屋で何十人いただろう。お弟子さんや村の人たちで溢れかえらんばかりだ。
部屋の向こうの稲田には真夏の陽光がギラギラ光り、その向こうの瀬戸内海の上にかかった入道雲が、今まさに目の当たりにする入道雲だ。
もちろんクーラーなんてものはない。扇風機が何台か首を振っているだけで、団扇を使う人もいる。
海から吹きあがってくる風が実に涼しい。
おいしい。
子供のぼくはただ箸を運ぶのに忙しかっただけだったように思う。

非凡なる凡人

国木田独歩に「非凡なる凡人」という短編小説がある(http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/324_15711.html)。
友人が語った桂正作の生き方に感銘を受けて描いた作品であるが、ごく短い小説だから一度読んでもらえばわかるとおり、独歩が感心したほど正作が「非凡なる凡人」だとも思えない。
作家のような自由気ままに生きている独歩からすれば、桂正作の生き方は「非凡なる凡人」に見えたのかもしれない。
こんな人はどうだろう。
朝、空が白み始めるころ、ぼくは決まってウォーキングに出かける。夏だったら午前5時にもなっていない。
それでも田んぼや畑のあちらこちらにはもう軽トラが止まっていて、畑仕事をしている人たちがいる。たまにすれ違うウォーキング仲間もいる。
そんな中、バス停の終点があるんだが、誰が飾ったのかフェンスにプランタンが十あまり掲げられていて、いつも季節季節の花が咲いている。
その前で60前くらいだろうか、モンペ姿の女性が携帯用の箒を伸ばしていつもそのあたりを掃除している。大きなビニル袋を傍らに置き、腰には空き缶の入ったビニル袋を提げている。
ただ黙々と作業をしているこの女性に会うたびに言いようのない感動を覚えるのだ。
言葉では言い表しようがないほどその作業姿は実に自然で、誰を意識するでなく、始発前のバス停はもちろん人は誰もいない。
無我の境地で清掃しているとしか言いようがない。
「ご苦労様です。」、恥ずかしいような思いで言葉をかけると、「おはようございます。」と返ってくる言葉がまた自然なんだ。
ひょっとしたら、プランタンの花もこの女性が手入れしているのかもしれない。見たことはない。でもきっとそうだ。
誰知られることなく、やがて集まってくるバス利用者に、言いようのない親切を施しているこんな女性こそまさに「非凡なる凡人」という形容がぴったしだと思う。。
「非凡なる凡人」、独歩の小説から人口に膾炙した言葉だと思うんだが、実にいい言葉だ。
こんな凡人が多くいるからこそ、今の日本があり、世界に誇れる日本といえるんだ。
「非凡なる凡人」がもっともっと多くならんことを。

暮れなずむ谷あいにたたずみ

西に連なる讃岐の連山はそれほど高くない。だから日が落ちてもすぐに暗くはならず、まさに暮れなずむという形容がぴったしだ。
それでも下に見える集落は谷あいにあるせいか、夜のとばりが降り始め、ポツリポツリと家の明かりが灯り始める。
夕餉の支度か、それとも薪焚く風呂の煙か、青白い煙が緩やかに漂っている。
ぼくはこの光景が大好きだ。
いくつのころだったか、母に連れられ、物心ついてはじめて母の実家を訪れたとき、高みにある家の縁側から見た今と同じ光景が幼心に強く焼けつき、街中にいても日が落ちるとすぐにこの光景が目に浮かぶということがよくあった。
一日の仕事を終え、お風呂につかり、夕餉を囲む家族の幸せが、遠く離れた谷あいの家からも伝わってきたからに違いない。
仕事を終えた後はネオン輝く夜の街に繰り出し、塾通いの子供たちが右往左往する都会生活とは大違いだ。
それだけではない。ぼくが大好きな光景もきっと多く残っていたに違いない東北の山村は、今や無残にもその片鱗さえ残っていない。
人間のなせる業とはいえ、まさに悪魔の業だ。
自然が傷めたのではない。人間が人間を傷めたのである。
地震、水害、台風、日本人は自然災害には従容として立ち向かっていったし、立ち向かっていくことができた。
諦観からかもしれない。運命と思ったからかもしれない。
いや、それ以上に自然から被る恩恵のほうがはるかに多いことを知っているからだ。
しかし今回の災害は違う。
強欲で世故にだけ長けた一部の指導者たちによってもたらされた災害である。人災である。
夕餉を囲む明かりが一つも灯っていないあの山村には漆黒の闇が覆うばかりだ。
暮れなずむ山あいに見るこの幸せが、東北にも再生する日が来るのだろうか。
どうか来てくれと祈るばかりだ。

親の身勝手

子供受難の時代である。
出生からして喜ばれず、幼児には虐待を受け、学齢期になれば過酷な勉強を強いられ、セクハラにさらされ、全体からすれば少数なんだろうが、今の時代まさに子供受難の時代である。
どれにも共通しているのは、親の身勝手、大人たちの身勝手から生じていることである。
犯罪性を帯びた事例だけではない。身近にもいくらでもそんな事例はある。
たとえば離婚と親権にまつわる事例。
3年ほど前のことだが、アメリカ人男性が、離婚した日本人女性が共同親権を無視して子供を連れて帰国したのでそれを追って来日、子供を連れ戻そうとしたが「誘拐犯」で逮捕され、日米の外交問題にも発展した事件があった(http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2009/09/post-59.php)。
国際結婚が増え、それとともの離婚も増える中、離婚に際して親権を定め、親権を持たない親には面接権を保障し、養育費の支払いに強制力をはたらかせなくてはならない。その場合、子供の人権を守るために関係国が協力して、離婚調停の結果を履行させるために「ハーグ条約」を定め、多くの国がこれを批准してる。
ところが日本はこの条約を批准していなくて、子供が双方の親を行き来する共同親権という概念すらない。どちらか一方が親権を持つという単独親権である。
親権を持たず養育費をきちんと払っていても面接権は保証の限りではなく、養育費の支払いも「差し押さえ」のような強制力もないのが日本の現状だ。
上の事件ははしなくもこうした子供に対する日本とアメリカの親権意識の行き違いから起こった事件である。
そもそも離婚に際していちばんの被害者は子供たちなのである。
親は勝手だ。好きで一緒になり、嫌いだから別れる。もとをただせば他人同士なんだからそれでいいだろう。子供はそうはいかない。
母親のもとに引き取られようが、父親のもとで育てられようが、母親は母親だし、父親は父親だ。物理的に離されても心は離れられない。親たちの別れ方とは違うんだ。
だから世界の多くに国では共同親権という考えのもと、子供は自由に母親を訪ね、父親を訪ねられる制度になっている。年端のいかない幼児だって同じだ。母恋しいし、父恋しい。子供と引き離された親も同じだ。
そんな子供の心情なんてこれっぽちも考慮されていないのが日本の親権制度であり、さらに困ったことには、子供を自分の所有物と勘違いしている親たちや爺さん婆さんたちがいる。
子供たちがどんな寂しい思いをして育っていくんだろう。そんなことを考えたことがあるんだろうか。
統計によると、離婚して養育費を払っているケースは20%にも満たないし、養育費を払っていても(多くの場合父親なんだが)子供に合わせないため、国の救済は当てにならず面接権を求めて全国規模の組織がいくつもあるそうだ。全部親の身勝手から生じたこと。
日本も早く共同親権を制度化し、「ハーグ条約」を批准すべきだ。
このままでは子供受難の時代はまだまだ続く。

未来都市 ― ヒントは「道」 ―

もう1か月以上前になるが、京都府亀岡市で小学校へ登校中の児童と引率の保護者の列に軽自動車が突っ込み、計10人がはねられて3人が死亡、7人が重軽傷を負うという痛ましい事故があった。原因は居眠り運転とみられ、軽自動車を運転していた少年(18歳)は無免許運転であったという。
テレビや新聞でも大きく取り上げられ、原因が「居眠り運転」でしかも「無免許」というから、起こるべくして起こった事故としてその原因に多くの人が納得したに違いない。
しかし果たしてそれだけが原因であろうか。
テレビの実況中継を見ていて、曲がりくねった幅の狭い府道に白線を引いてあるだけでガードレールもない、あれでは「居眠り運転」で「無免許」でなくても死亡事故が起こってもおかしくはないとつくづく思った。
学童が登下校するというのになぜガードレールを設けなかったのか。さらに踏み込んでなぜあんな細い道に自動車を通すのか。このことを考えてみたときに、また「道」の果たす役割を考えてみないわけにはいかなくなった。またといったのは、このブログでも何度か「道」について書いたことがあったからだ。
20世紀を特徴づける事例は数え上げたらきりがないが、その一つが「車社会」の誕生であろう。
自動車の歴史をさかのぼれば18世紀末の蒸気自動車が始まりで、大衆化し一般社会にも普及しだしたのは20世紀初頭のフォードからだと言われている。
それ以来アメリカはもちろんの事、全ヨーロッパそして日本も急速に車社会に発展していったわけだ。
高級車が走り、大衆車が走り、道という道はそのためにどんどん舗装され、高速道路が網の目のように張り巡らされ、今や中国をはじめとする新興国の参入で全世界が車であふれかえる社会に変貌した。
さて問題はここからだ。
車の普及は確かに世の中を便利にし、物流は活発化し、老若男女車に乗れば日本の隅々まで行けるようになったわけだが、特に都会の社会生活は一変した。
学校から帰ってきた子供たちであふれかえった道。近所の奥さんやおばちゃん、おっちゃん達が立ち話をしていた道。夏の夜ともなれば床几を持ち出して夕涼みをした道。もうそんな道はどこにもない。
道という道に自動車があふれ、歩くのにも神経を使い、排ガスで空気は濁り、道で子供たちが遊ぶことなんてもってのほかだ。
人と人のいちばんの交流の場であった道が交流を分断する道、公害をまき散らす道に変わってしまい、それぞれが隔離された生活を余儀なくされてしまった。
学校から帰った子供たちは塾やおけいこごとに向かい、大人たちは買い物、遠出以外は家にこもってテレビを見、昔のようにちょっと外に出てみるということはなくなった。出るとしたらまたこれが車である。
車の出現によって「道」が車に独占され、人の行き来さえままならなくなった「道」が地域コミュニティを崩壊したと言っても過言ではない。
いったいこの変化からもたらされたものは何だろう。ここで言い出したらきりがないが、あまりにも負の側面が大きいことは確かだ。
冒頭で取り上げた交通事故は言うに及ばず、今問題になっている様々な社会現象、これらすべてがあまりにも車中心になってしまい、「道」の本来的意義を見失ってしまった結果だと断言したい。
ならどうすればいい?
昔の「道」に戻せばいい。ノスタルジアでもなんでもない。車を捨てるわけでもない。夢物語でもない。
車中心の社会構造を変えればいい。意識を変えればいいんだ。
都会には、車の全く通らない道、車だけが通る道、これを二分すればいい。車ばかりが便利な道ではなく、人にも便利で安心できる道を作ればいい。
家ごとに、会社ごとに駐車場を設けるから不便を感じるわけで、地域ごとに共同駐車場を設ければいいし、車の使い勝手も工夫すればいい。いくらでも考えられる。
もう長くなったのでこの辺りで話は終わりたいが、夢はどんどん広がってゆく。
20世紀は車中心に「道」を考えてきたが、21世紀は人間中心の「道」を復活していくことだ。そうすれば日本はもっともっと豊かな国になる。

妓王の事

 
♪♪♪ 嵯峨野さやさや (オペラ岸さんの作品です)♪♪♪

HKの大河ドラマ「平清盛」の人気がもう一つということだそうだ。ぼくも最初の何回かは見たが、長続きしなかった。
清盛人気にあやかろうと目論んでいた兵庫県知事が「画面が汚い」とクレームをつけ問題になったそうだが、確かにあの煙った画面を見ていると息苦しくなってくる。俳優たちの健康も気になってしようがなかった。 NHKは「当時の空気感を出している」と反論したそうだが、史実に基づいた時代考証も大切なことはわかるが、あの空気感がこのドラマに果たしてどれだけプラス効果を出しているのかはなはだ疑問だ。
平清盛といえば「平家物語」だが、「平家物語」には読んでいてももっと清澄感がある。
「祇園精舎の鐘のこえ、諸行無常のひびきあり」で始まる格調高い文章に初めて接した時の感動は今でも覚えている。なるほど琵琶弾きで語られた様に文章にもリズムがあり、流れる文章の中に哀感漂う「無常観」が自然と伝わってきた。ぼくのその後の人生観にも大きな影響を与えたであろうし、ぼくだけでなく、おそらく日本人の精神世界の中核になっているのではなかろうか。
東北大震災に示され、世界に賞賛された日本人の言動や行動様式もおそらく「平家物語」に流れる日本人特有の「無常観」とは無縁ではあるまい。
この間もあるテレビのクイズ番組で、「平家物語と同じジャンルはどれですか?」と問い、答えに「源氏物語、伊勢物語、栄花物語、太平記、方丈記」が用意され、「平家物語」は軍記物語だから正解は「太平記」というのがあった。 高校なんかの文学史でもそう習ったわけだが、「平家物語」は決してそんなジャンルにとどまる物語ではない。 生死をかけた戦の中に描かれた様々な男たちの人間模様もさることながら、見出しに挙げた「祇王の事」、さらに「小督の事」、祇園女御の事」、「横笛の事」といった女性にまつわる物語は数は少なくとも、この「平家物語」に言いようのない彩りを添えている。
京都嵯峨野にはこうした「平家物語」ゆかりの場所はたくさんあるが、やはり「祇王寺」が何度行っても心洗われる。
はじめ清盛に寵愛された妓王、妓女も、仏(御前)が現れるや手の平を返した仕打ちを受け、寵愛を受ける真っ只中の仏御前も明日は我が身と、すでに出家し今の祇王寺あたりに庵を構える妓王、妓女を頼って尼になるという物語は、能・狂言でもその花といわれるほど有名である。
大河ドラマ「平清盛」ではこの辺りをどう描くのか楽しみだが、そのあたりの場面ではあの煙りをぜひ取ってもらいたい。

金環日食の日

☆★☆ 金環日食 ☆★☆

金環日食が近々あることは知っていた。という程度の関心しかなかった。
連日テレビで取り上げられ、大騒ぎになっているので、知らずとも知ることになるわけだが、だからと言って、いついっか、何時に起こることやら、まったくと言っていいほど予備知識もなかった。
金環日食がどういう現象で、どうして起こり、なぜ「金環」なのかも、いろんな写真を見ていたので知っていたから、ことあらためて見たいという願望もなかったのだろう。
5月21日月曜日のあさ7時少し前、犬の散歩に出かけようとしていたら、点けているテレビからまた金環日食のことが出ていて、今日あさ7時から8時にかけて見られるという。金環食は関西地方だと7時半少し前だそうだ。
せっかくだから、濃いめのサングラスをかけて外に出た。
快晴だ。先々週に植えられた稲の苗がみるみる育っている。向こうの山は、新緑に輝く広葉樹林の中に幾何学模様を描くくすんだ杉林が嫌なコントラストをなしている。
さっそくサングラス越しにちらっと太陽を見たんだが、ただ眩しいだけで普段の太陽と全く変わらない。時計を見ると7時15分だから、太陽も相当欠けているはずなんだが、眩しいのなんの。こりゃダメだ。テレビでも、直接見ないよう注意していたので、ほんの瞬間にしか見ないんだが、強烈な光線だ。
やがて時刻は7時29分、金環食になっていて、太陽は最大食分(欠ける大きさの割合)は約0.97、面積でいうと90%近く隠れているそうだが、あたりは少し暗くなったかなという程度で、普段の快晴の日とほとんど変わらない。太陽って、こんなに明るいんだ!感動。

結局、金環日食の「き」も観測できなかったわけで、当然といえば当然。人に話しても笑われるだけだ。
ただ一つ、
砂浜の砂に映った自分の影に縁取りがされていて、はじめ乱視が進んだのかなと思ったことが、これも金環食で起きる現象だとか。
間接的にではあるが、世紀の金環日食に触れられたわけで、いつの間にかみなの仲間入りに相成ったという次第。

写真俳句(写俳)

 

★☆★ まほろば俳句会 ★☆★

世界最短の歌曲ってご存知だろうか。
Alone Alone Alone
という、たった3小節の歌曲である。
作詞作曲者がなんとあのベートーベンとお聞きになったら、なおさら驚かれるに違いない。
とは言ったはものの、昔むかーし、何かの本にそう紹介されていて強く印象に残り、いまだにぼくは信じているんだが、本当でしょうかね。
俳句もそうで、これも最短の詩である。
一時、前衛的な同人誌に、ページをめくってみたら何も書いていなくて真っ白けとか、「。」だけというような人を食ったというか、そんな詩(?)があったが、こんなのは論外として、世界広しといえども俳句ほど短い詩はない。
逆に世界最長の詩はと調べてみたら、チベットに「ケサル王伝」という叙事詩があって、なんとその単語数2000万語というから、五七五、17音という数え方をしたら、1億音は軽く超すことになる。
「詩」というジャンルでくくってしまえばなるほど同じ詩かもしれないが、叙事詩と抒情詩、俳句は抒情詩に分けられると思うが、似て非なるものであって、共通項は散文と違って韻律があるということだろう。
小説なども「言い尽くそう」とするから、いろんなお膳立てがいるし、一見本筋とは何の関係もない事細かい情景描写も必要で、こうしたお膳立てや情景描写が上手いか下手かで、小説の良し悪しをを左右するから無駄ではない。
しかし短歌や俳句は、できる限り無駄な言葉はそぎ落とし、たった31音や17音で情景や抒情を描き出そうとするのであるが、これは作り手の側からすればやはり無理があるのであって、究極「言いおほせて何かある」の境地に立ち、聞き手の側の直観力と想像力に頼らざるを得なくなる。
最近、知らなかったんだが、写真俳句、つづめて「写俳」というのがあるそうだ。
ぼくも、外に出るときは必ずiphoneを持ち歩くものだから、ちょっと気になった光景や花を写真に撮り、その時浮かんだ俳句を添えてTwitterにそれこそTwitterすることがよくあり、知らず知らずのうちに写真俳句の愛好者になっていたわけだ。
これだと、五七五、17音で伝えたい光景なり感動を言葉と画像で表現でき、言葉だけでは伝えきれないもどかしさを多少は軽減できる。
そういえば昔から「俳画」なるものがあった。南画の画家でもある与謝蕪村がその始祖らしいが、画が俳句を生かし、俳句が画を生かす。まさに言葉の芸術と絵画の芸術がコラボレートしたわけだ。
写真俳句は「俳画」の現代版ということになるのか。
ともかく、20世紀後半から始まったIT革命は、生活の隅々にまでいきわたり、芸術分野にも様々な革命をもたらしている。
俳句の世界にも「写真俳句」といった新しいジャンルが生まれてもおかしくはないし、今後ますます盛んになっていく気がする。