風邪と免疫機構

 
やっと治ったという感じだ。今回ひいた風邪はきつかった。
この冬は2回目で、前回はお正月をはさんだ2週間、大した熱も出ず、しんどかったのは2、3日であとはぐずぐず、のど、鼻、せきが不快の毎日だった。
今回のは、まずのどのいがらっぽさから始まり、インフルエンザ流行のうわさを聞いていたので、翌日近くの医院に行ったんだが、狭くて薄暗い待合室に診断を待つ患者がいっぱい。これじゃ、待っているだけでもっとひどくなりそう、と諦めて近くの薬屋で三共の総合感冒薬を買って帰った。その日は小康を得たが、翌日には体温が37度を超えたので、総合病院に行ってインフルエンザではないことを確認して処方薬と解熱剤を得て帰宅したが、熱は下がるどころか38度を超え、とうとう危険ラインの39度を突破。飲むのは控えたほうが良いとは理解していたが、もうしんどさに耐えきらず解熱剤を一錠を飲む。これがまた嫌というほど効いてわずか数時間で体温35.7度にまで低下。こんなにも解熱剤は効くのかと驚くと共に、逆にこのままじゃ済まないぞ、とその反動に一抹の不安を覚える。案の定、またまた36度を超え、37度を超え、体は節々痛くなるは、眠りに落ちても今制作中のホームページの同じ画面の夢ばかりくり返しくり返し出てきて気が変になりそうで、これはかなりきつくなりそうと覚悟を決める。そしてとうとうまた再び39度を突破したが、今度は我慢と何時間だろうか、ふと目が覚めるとすーと楽になり始め、夜店の店じまいのようにばたばたとウィルス君が退散してしまった。さすがに体力は消耗しきって立ち上がるのもおぼつかない。
驚きまた同時に感動した。これが人間の持つ免疫機構なんだと。体重70kgの男の体を何時間どころか何日間にもわたって平常体温から2~4度も押し上げる莫大なエネルギーによってウィルスに立ち向かうこの防御機構こそが、人類をして種を永劫あらしめている主原因なんだと。それと同時にたかが風邪ウィルスに対してだけにでもこれだけ莫大なエネルギーを費やさなければ生命を維持できない自然界のきびしさ、それだけのエネルギーの補給をし終えなくなったときには死あるのみなんだという宿命を、今回の風邪でいやというほど思い知らされた。自分の体であって、自分の体でないような体験だった。
 

日本の戦後教育

12月17日に本ブログに投稿した「昭和の遺書」は、文芸春秋2009年1月号の特集『昭和の遺書[53通]』から引用させてもらったものだが、ここには昭和天皇をはじめ昭和の時代を代表する様々な分野の著名人の「遺書」が紹介されている。それぞれ特徴があり教えられるところがたくさんあったが、圧倒的な迫力で迫ってきたのは、自然死ではなく突きつけられた「死」を選択せざるをえず死んでいった人たちの「遺書」だ。
学徒出陣によってあたら「死」に追いやられた若い学生たちの遺書には無念がにじみ出ていて、涙なしには読めなかった。昔、「きけわだつみの声」でも読んだが、幾度読んでも深く胸に迫るものがある。
そして思ったことだが、こういうものがあることを小学校や中学校で教わっただろうかということだ。「きけわだつみの声」にしても、高校生の時、夏休みの宿題として出された「読書感想文」の素材として、確か出版社のパンフレットから自分で探し出したように思う。
ブログ「昭和の遺書」の下にリンクを張った「★☆★ 昭和の遺言 ☆★☆」は「You Tube」の動画から選んだ『神風特別攻撃隊の言霊』だが、この動画も朗読も初めて目にし耳にしたものだし、学校時代にこんな類の教材にはお目にかかったことがないように思う。
これを読んでもらっている皆さんの中には、いや学校で教えてもらったという人がいるかもしれないが、おそらく「学校」ではなく先生から教えてもらったのだろう。そんな人は幸いだ。
日本の学校教育はかなり中央集権制の強い制度になっていて、教科書検定をはじめ教育現場の仔細に至るまで差配している。だから国の教育の在りようが 、その時には普遍性があり常識的だと考えられている考え方や歴史観にやはり偏ってしまう傾向がある。
戦後日本の「平和教育」は第二次世界大戦敗戦を受けての「懺悔教育」であり、その方向にもっていこうとする戦勝国側の意図が働いていたのも確かだ。
19世紀末から20世紀初頭にかけての、いかに自分たちの支配地域を拡大するかに腐心した帝国主義時代に、新興国家日本の勢いを恐れていたアメリカをはじめとする連合国諸国はやっとその勢いを止め得たと同時に、これから先もその勢いをそぐためのあらゆる方策を考えたわけだ。そのためには、朝鮮や中国、そしてアジア諸国に対して日本がどれだけ悪事を働いたかに目を向けさせ、広島や長崎で行った人類史上最大で最悪の大虐殺に日本国民が目を向け、そこから湧き起こるかもしれない「愛国心」から目をそらさねばならなかった。元来自省心の強い日本国民はまんまとその意図に乗せられ、だから上にあげたような「きけわだつみの声」だとか、戦争にまつわる実に素朴で人間的な情愛に絡まる話だとか記録などは、戦争賛美につながり、反アメリカ、反戦勝国につながる恐れがあるとして学校で取り扱う教材としては極力避けられた。
その影響力は戦後60年経った今も歴然として存在し、我が国の行く末さえ定かにできない状況を作り出しているのだ。
教育は、ひとりひとりの人生を築く礎を授けるものであり、同時に国のありようを決定づける根幹でもある。
「きけわだつみの声」や、人間の様々な側面を描いた魅力あふれるDVD,「You Tube」にみられるような貴重な記録などがもっともっと教育現場でも使われて、真の「平和」とは何か、真の「愛国心」とは何か、真の「人類愛」とは何か、過去のトラウマから解き放たれた自由闊達な「新教育」を実現しなければならない。

昭和の遺書

南九州の制空権  すでに敵の手中にあり
我らが祖国  まさに崩壊せんとす
生をこの国に享(う)けしもの  なんぞ生命を惜しまん
愚劣なりし日本よ  優柔不断なる日本よ
汝いかに愚かなりとも  我らこの国の人たる以上
その防衛に  奮起せざるをえず
オプティミズムをやめよ  眼をひらけ
日本の人々よ  日本は必ず負ける
そして我ら日本人は  なんとしてもこの国に
新たなる生命を吹きこみ  新たなる再建の道を
切りひらかなければならぬ
若きジェネレーション  君たちは
あまりにも苦しい運命と  闘わねばならない
だが頑張ってくれ
盲目になって生きること  それほど正しいモラルはない
死ではない  生なのだ
モラルのめざすものは  そして我らのごとく死を求る者を
インモラリストと人は言わん
林 尹夫 (ただお)
林は京都大学文学部で西洋史を専攻 学徒出陣して海軍飛行予備学生となり
昭和20年7月28日夜間索敵哨戒飛行中に敵の夜間戦闘機の迎撃を受けて戦死
―『文芸春秋』2009年1月号「昭和の遺書[53通](梯 久美子)より引用 ―

田母神論文に思う

 
 航空自衛隊の最高幹部である田母神前空幕長が懸賞論文に「我が国が侵略国家だったというのは濡れ衣」と発表してから、もう1ヶ月半経った。
 発表当初のあの騒ぎぶり、特にマスコミの騒ぎぶりはどこに行ったのか、いつも言われることだが「熱しやすくて冷めやすい」体質は相変わらずだ。
 その論評ぶりからしてまさに「むべなるかな」と言わざるを得ない。
 最近特に上滑りで無教養極まりない「朝日」をはじめとしたマスコミの論調はどれとして、「田母神論文」に太刀打ちできる歴史観と実証性を持ち得ないまま、マスコミお抱えの似非評論家や、選挙近しで浮足立ち国防もへったくれもあったものでないタレント兼業政治屋の言うがまま、「我こそは正義」と言わんばかりの論陣を張ったわけだが、「田母神論文」に賛同を表わす学者や評論家が多数現れはじめ、それも、是非はともかく「しっかりした」歴史観と実証性に裏打ちされた(と思えるんだが)田母神擁護論と、ネットにも賛同する意見が多く寄せられるに及んで、あれっそういう意見や歴史の見方もあるんだと、ここに及んで頭を冷やしたわけか、すっかり鳴りをひそめてしまった。
 マスコミに群がる人間はえてしてこういう人間が多いわけだし、どちらかといえば人の意見を受け渡しして成り立つ仕事だから、仕方がないといえばそれまでなんだが、「第4番目の権力機構」といわれるマスコミにも、もう少し冷静で幅広く意見を聞き、一呼吸おいて報道してくれることを願いたい。
 そして「田母神論文」を読んだわけだが、この表題「我が国が侵略国家だったというのは濡れ衣」がわざわいしたんだろう、内容も読む暇がないほど「お忙しい」マスコミ関係諸君に上げ足を取られたのは。しかし、内容はいうほど「怖ろしい」ことを言っているわけではないように思えた。ごく当たり前のことを言っているんではないか。歴史の一方の見方だと思う。いままではあまりにも片方に寄りすぎた意見が多すぎたし、「村山談話」にしても、あんなもの時の国の代表が国際社会に表明するものではない。歴史的検証と評価が十分になされるにはまだまだ時間を要することだし、場合によっては全く反対の事実が歴史を塗り替えることだってあるわけだ。事実、「盧溝橋事件」、「上海事変」、「南京大虐殺事件」、「真珠湾攻撃」等々、従来の歴史的事実や評価を覆す資料や見解が続々と明るみに出てきている。一国の宰相が軽々に歴史的判断を下して、近隣諸国にはもちろん、国内向けにも影響力を及ぼすのはいかがなものか。
 「村山談話」なんてそれが出た背景を知ればいい加減なものだ。深い思索の産物ではない。権力にしがみつきたい連中が、全く相いれない政党の党首を担ぎ上げ、人数合わせのために自分の信念を折り曲げて「よいしょ」した妥協的産物でしかない。自民党と社会党だよ。あの時、国民の大多数はびっくり仰天したものだ。政治家なんて所詮そんな人物の寄り合いなんだから、議院内閣制でなく官僚内閣制になるのは当然の帰結。1930年代のあの国家存亡の時にも選挙のことしか考えず「2.26事件」を誘発した状況とまったく同じ状況で飛び出したのが「田母神論文」なのである。
 日本が侵略国家だったのか、仮にそうだったとしても、日本だけがいつまででもいつまででもそう言われ続け、反省し続けなければならないほど、世界ナンバーワンの侵略国家だったのか、そんな「自虐史観」から抜け出さなくてはこれからどうなるかわからない国際社会で、日本の国家戦略を大きく損なうおそれがあるのではないか、と田母神論文は訴えているのだ。
 日本に対しては「大陸棚国境線」を主張し、ヴェトナムに対しては南沙諸島問題で「中間国境線」をと、平気で使い分けて何ら恥じない「大国」が大手を振ってまかり通る国際社会で、このような「田母神論文」に昔の亡霊しか思い起こせず、うろたえ、パニクッているようでは、この国の先は一体どうなるんだろう。
 田母神君と一緒に腹を切りたいくらいだ。
 

嫉妬

♪♪♪ ジェラシー ♪♪♪
「嫉妬」と言えば普通男女間の愛憎を表わす場合が多い。しかし今のぼくの場合、ぼくより長く生きる者に対する嫉妬である。
今日孫娘が来てくれた。まだ1歳になったばかりだから、もちろん両親に連れられての来訪だが、実に可愛い。ひょこひょこと上手に歩き、笑顔を振りまき、どの仕草もまさに天使だ。それでも両親にとっては大変なこともあるんだろうが、その大変なことから解放されているぼくにとってはただ「可愛い」だけだ。小さな手足を巧みに使っておもちゃをいじったり、手押し車を走らせたり、一人でキャッカキャッカ遊んでいる。今は目の前にあるものすべてが興味の対象だ。触ったり舐めたり全神経を使って「物」を確かめている。こうして今から生きる世界を認識し、生きるすべを学んでいくのだろう。これから80年は生きていくんだろうから、西暦2090年くらいまで生きることになる。ぼくにとってこれが実に羨ましく、妬ましい。生きることができるならば何年でも生きたいが、100%無理なことだから悔しい。
時々「長生きしたくない。」とか「早く死にたい。」とか本気かどうか、軽々に言う人がいるが、ぼくにはどうしてもこういう人の気持ちが理解できない。未来永劫の「生」を願望するぼくにとってはそんな人たちから残りの「生」を譲り受け、かき集めたいくらいだ。で、そんなに長生きしてどうする? 放っておいてくれよ! 2090年の世界を孫娘と一緒に見たいだけだ。
「心なき 身にもあわれは知られけり ・・・」と歌った西行は、人は生きるとしても40歳までだ、あとは老醜をさらすのみ、と格好よく言って、結局72歳まで「老醜をさらした」わけだが、老醜をさらしてもぼくは生きたい。街を歩いていても若い人たちを見ると、この人たちはまだこれから5,60年は生きるんだ、とすると西暦2060年から2070年までか、羨ましいなあ、悔しいなあ、とそんな計算ばかりしてしまう。
自分が生きていて、いつかはこの世から消えてしまうという自覚をどうして与えてくれたんだ、と誰を恨んでいるのか、もし創造主というものがあるならばそれを恨んでみたくもなる。
こんなぼくはきっと極楽往生はできまい。「生」の未練に引きずられてその時もがき苦しむに違いない。極楽往生する人はきっと潔い人たちなんだ。

ブナ林見学会

★☆★ ブナ林 ★☆★ 
 
 さる自治体の「内山ブナ林」の見学会に参加した。地元のブナ林を保護育成していくための啓蒙活動の一環だ。参加したのは抽選に受かった40名の一般市民。60名あまりが応募したというからまあまあの関心の深さはあるのだろう。これまでにすでに2回見学会が催されていて今回は3回目ということになる。
 日本海側の「天橋立」の近くにある「内山ブナ林」は関西では有数のブナ林である。2台のマイクロバスが準備され、片道およそ3時間の道中では市の職員、ブナの専門家、野鳥の専門家のレクチャーがあり、まさに「先達はあらまほしきこと」を実感した。現地近くでは地元のNGO職員が案内人として加わった。あいにくの曇り空で時折小雨がぱらつくうっとうしいお天気だったが、「ブナ林見学にはもってこいのお天気」である、と慰められた。
 まだ紅葉には時間があるのか、色づいている木々はわずかだ。登りは普段の運動不足から少しきつかったが、やはり空気はおいしい。木々の名前を教えてもらい、時折聞こえてくる野鳥の名前を教えてもらい、聞き耳を立てるのも初めての体験だ。ブナの木は昔は家の普請とか、燃料に利用され地元の人たちにとっては密接な関係があったそうだ。そういえば、人の高さくらいまではふた抱えもみ抱えもある台木から二股に幹が伸びているブナが多い。そのあたりで切り取られ、そこから新たに幹が伸びてそうなったそうだ。森林の奥には幹回り4,5メートルはある最大のブナがあり、樹齢何百年にもなるそうだ。
 こうして4時間余りのブナ林散策は終わったわけだが、あたりの集落も昔ながらの山里の風情を残し、雪深い地であるのだろう、間もなく訪れる冬に備えて、もう藁葺きではないがトタンぶきの急斜面の屋根は滑りやすい塗料でピカピカに塗られていた。
 こうした催しものに参加したのは初めてだが、とても有意義な見学会であったと思う。と同時にあらためて、こうして「ブナ林見学会」を催さなければならないほど、ブナ林、広くは広葉樹林が少なくなったことの意味を考えざるを得ない。
 毎年毎年多くの人たちを悩ます「花粉症」も元をただせば、こうした広葉樹林を切り倒し、山という山はすべてスギ、ヒノキに植え替えてしまった、またそれを許した国の森林政策・行政の大失策である。国産のスギ、ヒノキ材は今や需要が激減、逼迫していて切り出しは勿論、手入れも行き届いていないのが実情だ。これを追究する声はあまりにも小さい。
 今や20%を割るまでに減少した農家人口に比例して、農林水産業に対する国民的関心は薄くなり、なぜこうして毎年「花粉症」に悩まされているのか、その根本原因を探ろうともしない。「スギ花粉が原因」にとどまって納得してしまっている。
 今回の見学会にもこの点に関しての関心が薄く、「大人の遠足」にとどまっているのではないかという不満が残ったことは否めない。
 

秋の夕暮れ

 
旅先で買い物をしての帰り道、暮れなずむ田圃道を歩いていると、どこからともなく香ばしい煙が漂ってきた。前方を見上げると、暮色に染まった山並がかすかに明かりをとどめる夕空を背景にくっきりと立ちはだかっている、その夕空に淡いけぶりが微風にあおられながら左から右にゆっくりと立ち上っていく。収穫を終えた田圃で籾を焼いているのだ。右に立つ糸杉の並木の上ではねぐらを求めてやってきたカラスが4,5羽小さな円を描きながらゆっくりと舞っている。向こうのほうの農家には明かりがともっていて人影が動く。
今日の泊まりは山一つ越えた川筋の民宿だ。まだこれから小一時間。ぼつぼつお腹もすいてきた。しかしなぜか足が進まない。何とも言いようのない寂寥感がこの夕闇の中に漂っていて、この夕闇の中に消えていってしまいそうな自分を感じる。都会の雑踏の中にいる時感じる寂しさとまた違った寂しさだ。
この寂しさは何だろう。秋の夕暮れに感じるこの寂しさは。限られた命でしかない自覚がふとよみがえるのかもしれない。あの暑い夏、青々とむせかえるように広がっていた田圃も、今はこうして刈り取られた根っこの株だけが整然と並び、その上で籾殻を焼く煙は「鳥辺山の烟」と同じかもしれない。
 
 ・心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行)
 ・見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫やの秋の夕暮れ(定家)
 ・寂しさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ(寂蓮)
 ・山の端に籾焚く煙立つ見えて香りにむせぶ秋の夕暮れ(Santa)

曼珠沙華-ひがんばな、まんじゅしゃげ、まんじゅしゃか-

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♪♪♪ 曼珠沙華 ♪♪♪

 

GONSHAN GONSHAN 何処(どこ)へゆく。

赤い御墓(おはか)の曼珠沙華(ひがんばな)

曼珠沙華、

けふも手折(たお)りに来たわいな。

 

GONSHANS GONSHAN 何本か。

地には七本、血のやうに、

血のやうに、

ちゃうど、あの児の年の数。

 

GONSHAN GONSHAN 気をつけな。

ひとつ摘んでも、日は真昼、

日は真昼、

ひとつあとからまたひらく。

 

GONSHAN GONSHAN 何故(なし)泣くろ。

何時(いつ)までとっても、曼珠沙華、

曼珠沙華、

恐(こは)や赤しや、まだ七つ。

 

〔語注〕 GONSHAN=九州柳川方言で、GONは「権」で素封家、SHANは「ちゃん」、あわせて、良家のお嬢さんまたはお嫁さん 曼珠沙華=まんじゅしゃげ、山口百恵の歌では、まんじゅしゃか

 

なんて艶やかでかつ野暮ったい花なんだといつも思う。
9月23日お彼岸のころになると、稲もたわわの畔に、あちらに一群れ、こちらに一群れ、手前に一二本ポツン、ずっと先に群れをなしてと、咲き乱れるという風でもなく咲いていて、それでいて人の目を惹きつけてやまない、確かに秋の光景だ。
向こうのほうの田んぼのあぜ道を、真っ赤な日傘をさして、どこかさびしげな、そして危なっかしい足取りで歩いてゆく女が、ふっと現れ、ふーっと消えていった。
高校生の時、楽譜が読めるようになって、いろんな楽譜を買ってきて読み漁ったことがある。「日本歌曲全集」と言ったかどうか、かなり分厚い歌曲集の中にこの「曼珠沙華」を見つけ出したときの感動は今も覚えている。
「ごん しゃん、 ごん しゃん、 どこへ ゆく」、山田耕作作曲で北原白秋作詞のこの曲だが、日本民謡風でもあり、子守唄のような旋律でもあるような、また御詠歌のような雰囲気をもった歌だなあ、と思ったが、それ以上に歌詞の意味を考えてもみなかった。
今こうしてもう一度、歌詞を読み、口ずさんでみると、あの曼珠沙華の咲く景色と、これから深まりゆく秋の気配が、何とも言いようのない寂しさで迫ってくる。
幼くして亡くした児をふつふつとさせる曼珠沙華なのか、事情があってこの世に生み出せなかった赤子がこの曼珠沙華なのか、人はみな、思うに任せない現身(うつせみ)を生きているのだ。
どうか、わが児だけは殺してくれるなよ。

 

 
   
 
 

アメリカの若者たち-PTSD-

★☆★ PTSD ★☆★
 
イラクやアフガニスタンはいまやヴェトナム戦争末期の時と同じ状況に置かれている。ヴェトナム戦争は国家対国家の戦争であったため、アメリカ(名目は連合国、以下同じ)が敗戦するまで戦争は継続され、アメリカが敗北することによって戦争は終結された。一方、イラクはフセインが率いるイラク国家との戦争ではあったが、フセインが破れ、一応国家対国家の戦争は終わったことになっているが、アメリカの戦死者数をみてもわかるとおり、終戦後のほうが明らかに戦闘状態は深刻になっている。まさにゲリラ戦である。アフガニスタンも国家対国家の戦争ではなく、これもゲリラ戦だ。
これらイラクやアフガニスタンのゲリラ戦を制圧するためにアメリカの多くの若者たちが徴兵され、戦場に駆り出されている。世界一自由で豊かな国を自負するアメリカで何不自由なく暮らしてきたアメリカの若者たちにとって、上官の命令には絶対服従を強いられ、「撃て!」と言われれば撃たねばならず、「殺せ!」と言われれば殺さなければならない戦場は、まさしく阿鼻叫喚の世界だ。そうした若者たちの多くが無事祖国に帰還できた後もPTSD(心的外傷後ストレス障害)で苦しみ、大きな社会問題になっているアメリカの現実が、先日、NHKのドキュメンタリー番組で取り上げられていた。
アメリカ政府のこうした政策がはたして正しいのかどうかは別にして、平和に暮らしている一市民にこれだけの犠牲を強いる国家権力とは一体何なのか、何の根拠に基づいて強いられるのか、十分に考えてみなければならない問題だ。
と同時に、日本政府が、そして世界の多くの国々がこのアメリカの政策を支持するならば、日本がこのイラクやアフガニスタンの問題にただ戦費の拠出だけで済ませ、アメリカの若者たちの命を贖っている事実に目をそらしていていいのか、大いに問題だ。
町内に凶悪犯が潜入し、自警団を組織したとき、「我が家の家訓によりそんな物騒なことには係わりません。」と例え上乗せした分担金を拠出したとしても、それだけで済ましたとしたら町内の人たちはどう思うだろう。
日本国憲法を盾に、いわば逆手にとって、国際社会の無理難題を潜り抜け、戦後日本の復興を図ってきたことは紛れもない事実だ。今も、この憲法は幸か不幸か、わが日本の若者たちを、アメリカの若者たちが直面している塗炭の苦しみから守っている。
かたや、街の至る所で携帯電話をピコピコする若者であふれ、かたや、戦場で明日の我が命も知れず、人の命を奪ったことで苦しみ抜く若者たちがいることを、アメリカ国家、日本国家という範疇ではなく、人間として人類として考えていかねばばらない。
 
誰が我が愛する息子、娘たちをあたら戦場に送ることを望もうか。
 
★映画(DVD) 「7月4日に生まれて(原題:Born on the Fourth of July)」 を一度ぜひご覧ください。
                        

多国籍軍の人的損害状況 (イラク戦争のみ)

アメリカ合衆国軍

   年度

    戦死

   負傷者

    2003年 

     486

    2,416

    2004年

     849

    8,004

    2005年

     846

    5,946

    2006年

     822

    6,411

    2007年

     902

    6,103

    2008年

     160

    1098
 
全参加国軍合わせて即席爆発装置(IED)による死者は1770名。
その内米軍は1687名(約40パーセントがIEDによる死者ということになる)
  ※2008年4月までの集計
 
その他の多国籍軍

戦死

戦死

イギリス

176

ラトビア

3

イタリア

33

     ルーマニア

3

  ポーランド

23

        オーストラリア

3

  ウクライナ

18

   エストニア

2

  ブルガリア

13

オランダ

2

スペイン

11

タイ

2

  デンマーク

7

      ハンガリー

1

         エルサルバドル

5

      カザフスタン

1

  スロバキア

4

   大韓民国

1

 グルジア

4

チェコ

1

  ※戦死者のみ2008年4月までの集計[21]
 
 ★これも忘れてはならない。
 中国国務院が発表する「2007年アメリカ人権記録」によると、2003年以来イラク平民死亡数は66万人以上。
 ロサンゼルス・タイムスの統計によると、100万人も上回る。

北京オリンピックそして中国②

★☆★ 北京オリンピック ★☆★ 
 
皆さんお元気ですか。
こちらは熱い夏もやっと峠を越し、気温27~8度、とてもしのぎやすくなりました。
そちら青島はどうですか。
中国悲願の北京オリンピックもなんとか無事終わり、さてこれから中国および中国国民がこの成果をどう生かしていくのか、★☆★
チベット問題 ★☆★ (この映像が頭から離れない。;現在この映像はなぜか削除されている。;また復活!;再び削除中!;★☆★ これ ★☆★もいずれ・・・)、新疆ウィグル問題、自由と人権の問題、環境問題、社会的格差と汚職の問題、そしてここにきて陰りを見せ始めた経済問題など等、これからが試練だと思います。
中国人たちも100年の鬱積を一気に払いのけ、これで大いに自信をつけたでしょうから、これまでのような偏頗な自己満足や狭隘な愛国主義に走ることなく、世界との真の意味での連帯感を深める方向に向かえば、中国人のみならず世界にとっても同慶の至りです。
「国威発揚のため」と言われようと、「演出過剰」と言われようと、「人権抑圧下の祭典」と言われようと、あれはあれで中国流の精いっぱいの「おもてなし」であり、先進国への仲間入りの「大見え」なのだと思います。
考えても見てください。
13億人もの人たちを束ねていくことの難しさと束ねそこなった時の恐怖感がどれほど現在の中国の為政者たちに付きまとっているか。
歴史を振り返ればわかることですが、中国という国は1949年以前には存在したことはありません。「中国4千年の歴史」とかよくいいますが、それは中国という国が4千年間続いてきたということではありません。ある時は漢民族であったり、ある時はモンゴル民族であったり、またある時は満州族であったり、今でいう中国の土地を支配してきた国は様々なのです。日本という国が千年とか二千年とか続いてきたというのとはわけが違います。現「中国」は高々50年の歴史しか持たない国なのです。イスラエルという国が20世紀に誕生したように、中国も20世紀に誕生した新興国家なのです。しかもチベット族、ウィグル族、モンゴル族、満州族といったそれまでに大きな土地を占有していた多民族をも含めて「中国」が誕生したわけです。すべて「共産主義」の御旗を掲げての誕生なのです。いわば20世紀最大の実験国家なのです。無理を承知でできた国ですから、それを束ねていくことの困難さは外部世界の人たちには到底理解できないし、「世界の非常識が中国の常識」といった価値観の逆転が起こりうるわけです。
そんなことを考えるとき、あの開会式といい、閉会式といい、まことに立派であったとまず素直に感動を伝えましょう。そしてそれを支え、あれだけの大事業を成し遂げ得たのは、やはり13億人の、農民をはじめとする(中国)人民があってこそなのだということ、自由を求め、独立を求め、人権確立を求め、正義を求めたが故に、反体制側に回った人たちと、奇しくも四川大地震のような自然災害に見舞われた人たちの命と血によって購われたものだということも忘れてはなりません
遠慮はいらない。世界の常識は中国の非常識を常に糾弾していかねばなりません。中国人民のためにも。