今日孫娘が来てくれた。まだ1歳になったばかりだから、もちろん両親に連れられての来訪だが、実に可愛い。ひょこひょこと上手に歩き、笑顔を振りまき、どの仕草もまさに天使だ。それでも両親にとっては大変なこともあるんだろうが、その大変なことから解放されているぼくにとってはただ「可愛い」だけだ。小さな手足を巧みに使っておもちゃをいじったり、手押し車を走らせたり、一人でキャッカキャッカ遊んでいる。今は目の前にあるものすべてが興味の対象だ。触ったり舐めたり全神経を使って「物」を確かめている。こうして今から生きる世界を認識し、生きるすべを学んでいくのだろう。これから80年は生きていくんだろうから、西暦2090年くらいまで生きることになる。ぼくにとってこれが実に羨ましく、妬ましい。生きることができるならば何年でも生きたいが、100%無理なことだから悔しい。
時々「長生きしたくない。」とか「早く死にたい。」とか本気かどうか、軽々に言う人がいるが、ぼくにはどうしてもこういう人の気持ちが理解できない。未来永劫の「生」を願望するぼくにとってはそんな人たちから残りの「生」を譲り受け、かき集めたいくらいだ。で、そんなに長生きしてどうする? 放っておいてくれよ! 2090年の世界を孫娘と一緒に見たいだけだ。
「心なき 身にもあわれは知られけり ・・・」と歌った西行は、人は生きるとしても40歳までだ、あとは老醜をさらすのみ、と格好よく言って、結局72歳まで「老醜をさらした」わけだが、老醜をさらしてもぼくは生きたい。街を歩いていても若い人たちを見ると、この人たちはまだこれから5,60年は生きるんだ、とすると西暦2060年から2070年までか、羨ましいなあ、悔しいなあ、とそんな計算ばかりしてしまう。
自分が生きていて、いつかはこの世から消えてしまうという自覚をどうして与えてくれたんだ、と誰を恨んでいるのか、もし創造主というものがあるならばそれを恨んでみたくもなる。
こんなぼくはきっと極楽往生はできまい。「生」の未練に引きずられてその時もがき苦しむに違いない。極楽往生する人はきっと潔い人たちなんだ。