北京オリンピックそして中国

★☆★ 中国 ★☆★
 
北京オリンピックがいよいよ開幕だ。世界各地を巡った聖火リレーの混乱が否応なく北京オリンピックの関心を増幅したのは皮肉だが,隣人としてやはりこのオリンピックが成功裏に終了することを願わずにはおられない。
いまや中国の経済発展は留まるところを知らない。アメリカのサブプライム問題に端を発した自由主義諸国の金融危機による世界的株価急落時にも,最初はくしゃみ程度の影響はあったものの中国の株価上昇の勢いは留まらず,日々新高値を更新するありさまであった。しかしこれも皮肉なことだが昨年の10月ごろをピークにオリンピックが近づくにつれ株価は下落の一途をたどり,8月現在の株価は1年半前の2007年初頭の株価にまで下がってしまった。中国経済の脆弱性を指摘するエコノミストは多い。2008年の北京オリンピック,2010年上海万博,こうした国家的ビッグ・エベントを境に必ずバブルがはじけ,経済的混乱はもちろん,政治的動乱をも予測する向きがある。こうした意見が単なるやっかみ半分の杞憂に過ぎないのか,予想が的中するのか,その時になってみなければ分からないというのが,無責任だが,いちばん無難な意見である。
いずれにしろ中国は日本にとって単に隣国といって済ませる国ではない。
中国で生活してわかることだが,中国人の日本および日本人に対する思いは複雑だ。古代から今に至るまで脈々と流れる中華思想,国家レベルでは日本,朝鮮,周辺のアジア諸国をいまだに属国と見ている節があるし,一般国民でも日本を蔑んで「小日本」を言ってはばからない。ところが近代,日本が東洋においてまず近代国家に名乗りを上げ,中国には大きく先んじてしまった。日清戦争に敗れ,国土の一部に傀儡政府をつくられ,国内の多くの都市を制圧され,経済面においては大きく後れをとった。文化面においても中国近代化のために何万人もの中国人留学生が日本で学び,漢字の「輸出国」がその輸出先の国から多くの近代用語(科学,経済,政治等の学術用語及び専門用語の分野は特に顕著)を移入せざるを得ないほど文化も凋落してしまった。日本に来た中国人の多くは日本が単に近代国家に一番乗りしただけではなく,日本人の人間性と道徳性,文化の奥深さに目を見張り,魯迅にいたっては自国民に望みを失うほどのショックを受けた。その後の国内の動乱と日中戦争は国土の荒廃と人心の退廃をもたらし,中華人民共和国の建国後も紆余曲折,多数の人民が食わんがための生活から解放されてまだ20年足らずである。中国があれほどなりふり構わずオリンピックに執着する姿もむべなるかなである。ただどうだろう,まだまだ多くの国民はオリンピックの祭典を心から喜んでいるんだろうか。
いずれにしろオリンピックを境に中国がこれからどんな近代国家に変貌していくのか,世界人口の四分の一を占める大国中国は良くも悪くも21世紀世界の台風の目であることは確かだ。

ラジオ体操―国民的財産―

♪★♪ ラジオ体操 ♪★♪
 
  新しい朝が来た 希望の朝だ
  喜びに胸を開け 大空あおげ
  ラジオの声に 健やかな胸を
  この香る風に 開けよ
  それ 一 二 三
 
 朝6時半、藤山一郎さんの元気溌剌とした歌声が町内に響き渡る。
 朝寝坊をしていた小学生連中が眠そうに目をこすりながら次々と家から飛び出してくる。夏休み恒例のラジオ体操の始まりだ。お父さんお母さん方、お年寄りも結構な数だ。道端の木箱の上に置いたラジオから流れてくるピアノ伴奏に合わせて、まだ眠りから覚めないのかタコのようにフニャリフニャリ体を動かす子、飛び跳ねるように元気に手足を動かす子、おしゃべりに夢中でリズムにまったく合っていない女の子、実にさまざまだ。第一体操はみんな何とかこなせるが、第二になると大人たちはもちろん、子供たちもあやふやだ。第二は学校でも習い始めたところでまだしっかり身についていないし、大人たちはまったく知らないから勝手な振りを付けて体操している。
 服装も小学生の男の子はたいがいパンツにランニング、女の子は花柄のついた薄手のワンピースや様々、おじさんたちはステテコにやはりランニング、おばさんたちはありあわせの夏姿だ。気取った服装をしている人は誰もいない。
 やがて体操が終わると班長さんの前に行列だ。出席カードに判を押してもらわねばならない。欠席がなければお盆のときお地蔵さんに祭るお供物のおすそ分けがたくさんもらえるから、みんな休まない。
 判を押し終わると町内の掃除だ。家から持ってきた思い思いの箒で町内の道や溝をきれいに掃いて回る。このころには周りでセミもうるさく鳴き始め、朝の日差しがギラギラし始める。こうして僕たち小学生の夏休みの一日が始まるわけだ。
 さて、このラジオ体操ほど今ありがたいと思っているものはない。
 おかげさまで第一ラジオ体操だけは完全に覚えているし、普段の運動不足を補うためにも、また外国に行った時にも、いつでもどこでもこの体操ができる。上海にいたときには、朝、太極拳のグループに入れてもらい太極拳を習っていたが、ふとしたことでこのラジオ体操を皆に披露すると、皆が非常に興味を持ってくれ、教えてくれということで皆に教えたことがある。日本人なら誰でもこのラジオ体操はできるのではないだろうか。これは日本国民の一大財産だ。
 今日もこのラジオ体操から一日が始まった。もう朝から30度を超す猛暑だが、これで今日一日元気で乗り切る自信がついたぞ!

夏休み―皆さんはどんな?―

♪♪♪ 夏休み ♪♪♪
 
もうすっかり夏だ。空には綿菓子のような雲があちらこちらに浮かび、地平のかなたには入道雲がもくもくと立ち上がり真っ白に輝いている。空気は澄み切ってはるか遠くの山並みもくっきりと見渡せる。照りつける陽光は汗ばみを許さないほど強烈だ。
あれっ、今歩いている道はどこだっけ。ナスビとトマトが両側に植わった畑道を小学生が二人、じゃれ合いながらこちらに向かってくる。「こんにちは」、言葉をかけるときょとんとした顔がかわいらしい。見たこともない顔だ。あたりまえだよな。だからきょとんとしているんだ。どうも終業式の帰りらしい。二人とも通知表を開いたまま団扇代りに煽いでいる。
いいなあ、いちばん嬉しい時だ。あすから夏休み。成績なんてどうだっていいんだ。思いっきり遊べるんだものなあ。でも、日記だけは書くんだ。絵日記がいい。絵が好きだから、ナスビとスイカと、ええっと、そうだ、アサガオの絵は絶対書くぞ。ナスビの紫と、スイカの赤と、アサガオの空色、この色が好きなんだけど、どうしてもこの色が出せないんだよな。去年の夏休みにも挑戦したんだけど、とうとう出せなかった。今年こそ、ぜったいこの色を出してやるんだ。早く日記帳を買わなくちゃ。・・・いつの間にか小学生の時の原風景が夏空いっぱいに広がっていった。
こうしていくつ夏を越してきたのか、そしてこれからいくつこんな夏を越していけるのかなあ。
おーい、きみたち、ぼくにもきみたちのいのちわけてくれないかなあ。

ヒグラシ

★☆★ ヒグラシ ★☆★
 
またまたやってきた。梅雨明け時分になるとどうしても寝不足になる。あの清澄な音色に朝まだきから目が覚めて、にもかかわらず脳波はアルファ波状態、なんとも摩訶不思議なひと時を過ごすことになる。
夜がまだ明けるか明けないころ、遠くで一匹「ききききき・・・」と最初に鳴きはじめると、また別のところで一匹、そしてまた一匹と、しだいしだいにその狼煙は伝播し、やがて大きなうねりが押し寄せてくるようにヒグラシの鳴き声があたり一面にこだまし始める。
開け放してある窓からはひんやりとした冷気が忍び込み、ヒグラシの鳴き声と山の冷気が夏の到来をコラボレイトする。覚悟を決めなければならない。これから一ヶ月くらいは毎朝こういう状態が続くのだから。でもなんという至福の時か。
夏の風物詩も時代とともに様変わりしてきた。特に都会の街中では、朝顔の数もめっきり減ってきて、夜ともなれば、道のあちこちに床几を出して手に団扇、そばで子供が線香花火という光景もあまり見かけなくなった。みんなどうしてこの暑い夏を過ごしているのだろう。マンションが建ち、ビルが建ち、道という道は奇麗に舗装され、それはそれで美しくもあり、機能的で快適な一面もあるのだろうが、何か足りないものがある。特に子供の姿を見掛けない。走り回って、キャッキャッ、キャッキャッと騒ぎまわっている子供を見かけない。ましてやパンツいっちょでいる子なんてもう絵にも出てこない。たらいを出して水道のホースで水を浴び、水のかけっこをしている子ってどこかにいるんだろうか。
いっぽう、北アルプス、南アルプス、富士山、もうどこに行っても人がいっぱい。山小屋なんか、仰向けになって寝られない。左肩か右肩を横にして胸の幅でしか寝られないところなんてざら。昔、槍と穂高の間にある南岳小屋に泊まったとき、あまりの客の少なさに、居合わせた女性グループから「怖いから近くで寝てよろしいか」と言い寄られ、こそばゆい思いもしたものなんだが。河川敷の花火大会、夏祭り、海外脱出行、もうどこに行っても人、人、人。
さてさて、このヒグラシだけは昔も今もいっしょ。夕方、日が落ちる頃にも三々五々と鳴きはじめるが、あちらにポツン、こちらにポツンと遠くの家の明かりがともり始め、夕餉のしたくか、お風呂を焚く煙か、淡い煙が立ち始めると、潮が引くかのようにヒグラシも消えていく。
夢かな、うつつかな。

わが愛車DAHON

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 標高差600mの那智山(南紀勝浦)を駆け上り、京都・奈良を散策し、中国上海を駆け巡った愛車DAHON。その華奢な躯体は重量わずか8.6㎏である。20インチ自転車では世界最軽量の総アルミ製だ。これを担いで列車に乗り、船に乗り、知らない街を、知らない道をどのくらい訪ね、駆け抜けたことだろう。風を全身に感じながら薫風を胸いっぱいに吸い、心安らぐ田園を通り抜け、はたまた、街の雑踏をかいくぐりかいくぐり、車の警笛を四方から浴びながら、それでも快走をつづけたDAHON。
でも・・・でもね、多く感じたことがある。
特に日本で感じたことは、道がまるで車の専有物になっていること。どんな田舎に行っても車が走る車道だけは整備も行き届き、スーイスイ。渡れない谷はなく、越えることのできない峠もない。ところがどうだ、人は?自転車は?いったいどこを通ればいいの?というところがいたるところ。やむなく車と同じ道を行くことになるのだが、傍らを猛スピードで警笛を鳴らしながら車が追い越して行く、地響きを轟かせながら大型トラックが通り過ぎてゆく、怖いの何のったらありゃしない。街中でも同じだ、最近は色とりどりのレンガや石を敷き詰めた立派な歩道があって、そこを自転車でも行けるのだが、自転車にとってはまるで快適ではない、デコボコだらけで、辻、辻では段差があってガタンボコン、そして少し郊外に出ても歩道は車道のつけたし。幅はますます狭く山あり谷あり、まるでジェットコースターのような歩道。その先は上で述べたとおり。
いったい車って、何様だーい。こうして全国、道という道をすべて我が物にしてしまい、昔いい遊び場だった道から子供達を追い払い、そのため子供達は今どうなってしまったの!? 町中の細い道まで行き交う車にみんなが神経を使い、道端の立ち話も、床几に腰掛けての夕涼みもなくなっちゃった。
あーあ、もっと深刻に考えてくれよ。道はさあ、もともと、行き交う人にとっても、そこで生活する人にとっても最大の交流の場であったはずだのに、今や危険と排気ガスをまき散らし、人と人を分断する檻の囲いになっちまった。
それにさあ、小型車も大型車も4,5人乗りの車に乗っているのはほとんどが一人、多くても二人、いったい、車が人を運んでいるのか、人が車を運んでいるのか、わかりゃしない。それに比べりゃ、今や時代の最先端を行くエコ乗り物、自転車、これをこんな除け者にしていていいの?
その点、中国はいい所あるね。大都市ではたいがい幅広い自転車専用道が確保されていて、車の心配はない。道の状態も車道の一部を使っているから滑らかで走りやすい。自転車乗りのとっては最高だよ。ただね、最近はここにバイクや電動自転車が相乗りしてきて、これは困ったもんだ。
さて、今日はこれから近くの海にDAHONで出かけるとするか。

誰か故郷を想わざる

♪♪♪ 誰か故郷を想わざる♪♪♪

小学校に行くか行かない頃だったと思う。戦後間もない頃で、娯楽といったらラジオくらいしかない頃であった。ある日、家で何をしていたんだろうか、突然外からレコードに合わせて誰かが歌うマイクの声が聞こえてきた。外に飛び出てみると、近所の「共産党のおっちゃん」が見かけによらず上手に歌を歌っている。見かけによらずといったのは、この「おっちゃん」、普段は「どもり」(差別用語かもしれませんが、あえて使わせてください)で、それほどの年でもなかっただろうにお頭(おつむ)がちょっと薄い。びっくりした。道の真中には石炭箱を並べた「にわかステージ」がしつらえてあって、まわりには近所中のおばちゃんやおっちゃん、それに子供たちも交えて、やんやの喝采を送っている。実にうまい、と子供心にそう思った。その歌が、もちろん後にわかったんだが、この「誰か故郷を思わざる」である。
「共産党のおっちゃん」を皮切りに、近所の人たちが次から次と「ステージ」に上って、あまり音の良くないマイクで、「ホワーン、ホワーン」とうなりを出すレコードに合わせて、みんな得意満面に歌っている。掛け声が飛び、指笛が飛び、誰が用意したのか紙テープまで飛ぶ。一大コンサートだ。
ああ、こんな時代があったんだなあ。みんな貧しかったけれど、実に明るかった。歌声も澄んでいたし、何か「希望」のようなものがあった。人と人を結びつける連帯感というものがあった。
人にとって「幸せ」っていったい何だろう。
昔はよかった、昔はよかった、いつの時代も年取った人たちの口癖だ。
自分たちが生き生きと、一所懸命生きた時代がいちばんなんだ。
今の時代の愚痴は言うまい。

顔面体操

 
5年ほど前に「突発性難聴」に襲われた。ベッドに横たわってテレビを見ていて気付いたんだが、左耳を伏せるとそれまで聞こえていたテレビの音声がほとんど聞こえない。翌日さっそく病院に行くと「突発性難聴」という診断。それから「ステロイド療法」とかさまざまな治療を試みたが、結局は治らないまま。
それと前後してだが、水を飲みそこなったとき、普通ならむせるんだが、そのむせることもできず、およそ1分間くらいだろうか実に長く感じるんだが、息を吐くことも吸うこともできなくなって、このまま死んじゃうんじゃないかと思うほどの恐怖を感じることが起こり、七味唐辛子やラー油といった刺激物がのどを通るときにも同じ症状が起こるので、これも病院で検査を受けたんだが、注意して水を飲むようにという忠告を得ただけ。
さらに、2年ほど前から、いわゆる「耳管開放症」といって、のどと内耳を通じて鼓膜内外の大気圧を調整している耳管が、普段は閉じているはずなんだが、これが開きっぱなし、という不快な病に取り付かれ、これはネットで調べたら、これも現在では適切な治療法はなく、ただ漢方薬の「加味帰脾湯」が効果ありとのことで、中国滞在中に漢方薬店で調剤してもらって服用を続けたが、結局ダメ。
上のどれもが多分「老い」からくる神経系の機能不全が原因でもう半ばあきらめていたんだが、あるとき、科学雑誌か何かでアインシュタイン博士が舌を「べろっ」と出している写真が掲載されていて、いったいこれは何の写真だろうと不思議に思ったことがある。
これがヒントになって、そうだ上の病はすべてのどから上の頭部にあって、その機能不全から起こっているんだ、よしっ、この機能を回復してやろうと思いついたのが「顔面体操」。
朝起きたとき、いつもしている腹筋運動、腕立て伏せとラジオ体操に加え、鏡の前であのアインシュタイン先生の「べろ出し体操」を30回、ひょっとこ、おかめ、しわくちゃばばあ(いや、じじい)、はんにゃ、ピエロ、チャップリン、などなど、顔中の筋肉を動かしまわす「顔面体操」、眼球を思いっきり上、思いっきり下、思いっきり右、思いっきり左、そしてぐるぐる回転の「目玉体操」、最後に乾いたタオルで顔面、首筋、耳の後ろを摩擦する「マッサージ」を毎日毎日繰り返した。
まだ実行し始めてから8ヶ月くらいだが、確かに効果があるような気がする。右耳の聴力は10デシベル程度だが改善され多少はよくなったし、呼吸困難症もそれからは一度も起こっていないし、耳管開放症もかなり改善しているように思われる。
このブログを読んでいただいた人にも上のような症状で苦しんでいる人がいたり、身近にそんな人たちがいたら、ぜひお伝えいただいて、試してみていただきたい。
 
[追記]2009年4月18日
この記事にはたくさんの方々のアクセスをいただき感謝いたしております。
その後の経過ですが、「突発性難聴」は現状維持、「呼吸困難症」はそれからも1度も起こっていません。回復著しいのは「耳管開放症」です。上記のような鍛錬法の結果なのか、自然治癒なのか判断できませんが、ほぼ完全に正常に回復したように思います。
 
「口内炎」について一言。
食事中に口の中をかむことが多く、事後必ずと言っていいほど「口内炎」にかかり、1週間ほどは痛くて食事もしづらいほどだったのですが、ご飯を「玄米」1に対して「白米」2の割合で作り出してから、この「口内炎」が全く起こらなくなりました。ご参考になれば。
 
[追記]2009年8月31日
「嚥下障害」の話題がテレビで取り上げられていました。本稿の「べろ出し体操」をぜひ試みてください。非常に有効だと体験的に感じています。

 
[追記]2024年10月14日
この記事を投稿してはや15年になります。たくさんの方々にアクセスしていただいて感謝の言葉もありません。寄る年波には勝てず、体のいたるところに「体勢疲労」がきています。しかし、この「顔面体操」は続けていて、効果はあるように思います。

日本人の品格

16世紀半ば、日本は戦国時代で群雄が割拠し、打ち続く動乱で世の中がどの時代よりも疲弊していた時代に来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、その著『ザビエルの見た日本』にこんなことを書いている。

「この国の人々は今まで発見された国民の中で最高であり、日本人より優れた人々は、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心が強い人で、他の何ものよりも名誉心を重んじます。大部分の人は貧しいのですが、武士も、そうでない人々も、貧しいことを不名誉とは思っていません。」
その後徳川の時代になり、長く鎖国が続くわけだが、その末期にはまた多くの外国人が日本にやってくる。
彼らが見た日本は一様に驚嘆すべきものだった。道徳心が高く、清潔で、一般庶民が読み書き算盤をこなし、いたるところに高い芸術性を備えた文化と伝統を保持している。慄然とせざるをえないものがあったのであろう。世界は重商主義から産業革命を経て、帝国主義時代に入っていて、植民地をどんどん拡大していた時代だ。日本も当然その対象になっていたとしてもおかしくない。しかしどの国も手出しはできなかった。
徳川末期には日本からも様々な使節がアメリカ、ヨーロッパに派遣されているが、ちょんまげに帯刀したその姿からは想像もできない気品と格式を備えていて、これもまた異国の人たちを驚かせた。
アメリカのボストン美術館は日本の絵画、彫刻を買いあさり、ヴァン・ゴッホはなんとか日本に行きたいと思い続けた。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は鈴虫を大切に育てその音色を愛でる日本人の繊細な心に打たれ、日本人以上に「国粋主義者」になってしまった。アインシュタインは初来日の折、日本人の持っている優美な芸術・伝統、個人に必要な謙虚さと質素さ、純粋で静かな心、そのすべてを兼ね備える「美しい日本」を心あつく語っている。
明治政府の元勲もまたしかり。彼らの多くは明治維新のときは、岩倉具視が40才を少し超えて最高齢、伊藤博文、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛など等みんな40才以下だったから驚きだ。中でも「国賊」西郷隆盛は明治政府の最高幹部に上り詰めた時にもその清廉潔白さで知られ、政敵からも福沢諭吉、内村鑑三、新渡戸稲造といった主義主張を異にした人々からも深く尊敬されていた。
NHKの大河ドラマ「篤姫」で西郷がどのように描かれていくか、たのしみにしている。
 
こうした日本を思い起こすとき、今の時代は果たしてどこに「日本人の品格」を見出したらいいのだろう。
四川大地震で日本の救助隊が亡くなった中国人母子にささげた最後の敬礼は「日本人の品格」をかろうじてつなぎとめている。