ヒグラシ
夜がまだ明けるか明けないころ、遠くで一匹「ききききき・・・」と最初に鳴きはじめると、また別のところで一匹、そしてまた一匹と、しだいしだいにその狼煙は伝播し、やがて大きなうねりが押し寄せてくるようにヒグラシの鳴き声があたり一面にこだまし始める。
開け放してある窓からはひんやりとした冷気が忍び込み、ヒグラシの鳴き声と山の冷気が夏の到来をコラボレイトする。覚悟を決めなければならない。これから一ヶ月くらいは毎朝こういう状態が続くのだから。でもなんという至福の時か。
夏の風物詩も時代とともに様変わりしてきた。特に都会の街中では、朝顔の数もめっきり減ってきて、夜ともなれば、道のあちこちに床几を出して手に団扇、そばで子供が線香花火という光景もあまり見かけなくなった。みんなどうしてこの暑い夏を過ごしているのだろう。マンションが建ち、ビルが建ち、道という道は奇麗に舗装され、それはそれで美しくもあり、機能的で快適な一面もあるのだろうが、何か足りないものがある。特に子供の姿を見掛けない。走り回って、キャッキャッ、キャッキャッと騒ぎまわっている子供を見かけない。ましてやパンツいっちょでいる子なんてもう絵にも出てこない。たらいを出して水道のホースで水を浴び、水のかけっこをしている子ってどこかにいるんだろうか。
いっぽう、北アルプス、南アルプス、富士山、もうどこに行っても人がいっぱい。山小屋なんか、仰向けになって寝られない。左肩か右肩を横にして胸の幅でしか寝られないところなんてざら。昔、槍と穂高の間にある南岳小屋に泊まったとき、あまりの客の少なさに、居合わせた女性グループから「怖いから近くで寝てよろしいか」と言い寄られ、こそばゆい思いもしたものなんだが。河川敷の花火大会、夏祭り、海外脱出行、もうどこに行っても人、人、人。
さてさて、このヒグラシだけは昔も今もいっしょ。夕方、日が落ちる頃にも三々五々と鳴きはじめるが、あちらにポツン、こちらにポツンと遠くの家の明かりがともり始め、夕餉のしたくか、お風呂を焚く煙か、淡い煙が立ち始めると、潮が引くかのようにヒグラシも消えていく。
夢かな、うつつかな。
わが愛車DAHON
さて、今日はこれから近くの海にDAHONで出かけるとするか。
折々の記
誰か故郷を想わざる
顔面体操
それと前後してだが、水を飲みそこなったとき、普通ならむせるんだが、そのむせることもできず、およそ1分間くらいだろうか実に長く感じるんだが、息を吐くことも吸うこともできなくなって、このまま死んじゃうんじゃないかと思うほどの恐怖を感じることが起こり、七味唐辛子やラー油といった刺激物がのどを通るときにも同じ症状が起こるので、これも病院で検査を受けたんだが、注意して水を飲むようにという忠告を得ただけ。
さらに、2年ほど前から、いわゆる「耳管開放症」といって、のどと内耳を通じて鼓膜内外の大気圧を調整している耳管が、普段は閉じているはずなんだが、これが開きっぱなし、という不快な病に取り付かれ、これはネットで調べたら、これも現在では適切な治療法はなく、ただ漢方薬の「加味帰脾湯」が効果ありとのことで、中国滞在中に漢方薬店で調剤してもらって服用を続けたが、結局ダメ。
上のどれもが多分「老い」からくる神経系の機能不全が原因でもう半ばあきらめていたんだが、あるとき、科学雑誌か何かでアインシュタイン博士が舌を「べろっ」と出している写真が掲載されていて、いったいこれは何の写真だろうと不思議に思ったことがある。
これがヒントになって、そうだ上の病はすべてのどから上の頭部にあって、その機能不全から起こっているんだ、よしっ、この機能を回復してやろうと思いついたのが「顔面体操」。
朝起きたとき、いつもしている腹筋運動、腕立て伏せとラジオ体操に加え、鏡の前であのアインシュタイン先生の「べろ出し体操」を30回、ひょっとこ、おかめ、しわくちゃばばあ(いや、じじい)、はんにゃ、ピエロ、チャップリン、などなど、顔中の筋肉を動かしまわす「顔面体操」、眼球を思いっきり上、思いっきり下、思いっきり右、思いっきり左、そしてぐるぐる回転の「目玉体操」、最後に乾いたタオルで顔面、首筋、耳の後ろを摩擦する「マッサージ」を毎日毎日繰り返した。
まだ実行し始めてから8ヶ月くらいだが、確かに効果があるような気がする。右耳の聴力は10デシベル程度だが改善され多少はよくなったし、呼吸困難症もそれからは一度も起こっていないし、耳管開放症もかなり改善しているように思われる。
[追記]2024年10月14日
この記事を投稿してはや15年になります。たくさんの方々にアクセスしていただいて感謝の言葉もありません。寄る年波には勝てず、体のいたるところに「体勢疲労」がきています。しかし、この「顔面体操」は続けていて、効果はあるように思います。
日本人の品格
16世紀半ば、日本は戦国時代で群雄が割拠し、打ち続く動乱で世の中がどの時代よりも疲弊していた時代に来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、その著『ザビエルの見た日本』にこんなことを書いている。
彼らが見た日本は一様に驚嘆すべきものだった。道徳心が高く、清潔で、一般庶民が読み書き算盤をこなし、いたるところに高い芸術性を備えた文化と伝統を保持している。慄然とせざるをえないものがあったのであろう。世界は重商主義から産業革命を経て、帝国主義時代に入っていて、植民地をどんどん拡大していた時代だ。日本も当然その対象になっていたとしてもおかしくない。しかしどの国も手出しはできなかった。
徳川末期には日本からも様々な使節がアメリカ、ヨーロッパに派遣されているが、ちょんまげに帯刀したその姿からは想像もできない気品と格式を備えていて、これもまた異国の人たちを驚かせた。
アメリカのボストン美術館は日本の絵画、彫刻を買いあさり、ヴァン・ゴッホはなんとか日本に行きたいと思い続けた。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は鈴虫を大切に育てその音色を愛でる日本人の繊細な心に打たれ、日本人以上に「国粋主義者」になってしまった。アインシュタインは初来日の折、日本人の持っている優美な芸術・伝統、個人に必要な謙虚さと質素さ、純粋で静かな心、そのすべてを兼ね備える「美しい日本」を心あつく語っている。
明治政府の元勲もまたしかり。彼らの多くは明治維新のときは、岩倉具視が40才を少し超えて最高齢、伊藤博文、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛など等みんな40才以下だったから驚きだ。中でも「国賊」西郷隆盛は明治政府の最高幹部に上り詰めた時にもその清廉潔白さで知られ、政敵からも福沢諭吉、内村鑑三、新渡戸稲造といった主義主張を異にした人々からも深く尊敬されていた。
NHKの大河ドラマ「篤姫」で西郷がどのように描かれていくか、たのしみにしている。
こうした日本を思い起こすとき、今の時代は果たしてどこに「日本人の品格」を見出したらいいのだろう。
We are the world !
ひとり言
だから一人山を歩きたくなるのかもしれません。
そしてこの三つのきつさから開放されたときの爽快さが忘れられない。汗まみれの下着を脱いで冷たい湧き水で体を拭き、新しい下着に替えたときの心地よさ。早めの昼食の準備を始めるころから、もう心はうきうき。あったかい味噌汁をすすりながら、今晩はどこに泊まろうかな、地図を取り出して宿泊地までのルートを確認する...
道中の心の葛藤は人生の縮図。一面に咲き乱れた高山植物に幾度も幾度もシャッターを切り、切り立った岩肌をトラバースするときには恐怖におののき、はるかかなたに繰り広げられる見事なパノラマにしばし時を忘れ、今歩いている道は本当に間違ってはいないだろうかと不安に駆られ、楽しさと、不安と、恐怖と、寂しさが交互に心をよぎる中、人はこうしていつかどこかで死んで行くんだろうと、むしろ安堵の気持ちが至福をもたらす不思議さ。
思えばわが人生にもいろんなことがありました。雨の日、傘もなくもちろん雨靴もなく小学校に通った日々のこと(これはさん太だけではありません。当時級友の多くがそうだったのです。)、新聞配達先で500円のお年玉をいただき人の優しさを知った中学時代のこと、先生と喧嘩して高校を中退した日のこと、出発10日前に軍事クーデターが起こり中断したアルジェリア渡航のこと、安保闘争に明け暮れ大失恋を味わった大学時代のこと、そして結婚のこと、子育てのこと、仕事のこと、友人のこと、ざっと思い出してもこれはこれでひとつのドラマ。
でも今しみじみ思うんですね。いったい人間てなんだろう。ほんとうに自分の意志で生きているんだろうか。こちらに行きたいと思っていたのに、あちらに行っていたり、善だと信じたことが悪であったり、これを選んだはずなのに、こんなものが手に入っていたり、ひょっとしたらやはり神さんがこの世の中で、ぼくにはぼくの役を与えていて、「さあ、この画面を通り抜けるんだよ」というふうに、せめて準主役ぐらいはやりたいのに通行人の役しか与えてくれなかったんじゃないだろうとかね。
わが友人を見てもそうだ。あいつ本当にいいやつだったのに、どうしてあんなハイジャックなんてしでかしたんだろう。あいつはずっと日のあたるところに生きてきたのに、どうしてこいつは刑務所で一生を送ろうとしているんだろう。いったいこいつらどこでどう分かれたんだろう。どちらも本当にいいやつだったのに。
絶対に今でも信じているよ。あいつらはやっぱり神さんからおおせつかった役を演じてきたんだよ。この世の中は舞台で、今生きているみんながお客であり、俳優なんだ。お互い一生を退屈しないように、見せ場見せ場を演じたにすぎないんだよとね。そうでも思わないと、やりきれないよ。
鐘の鳴る丘
暮れも押し迫り,街中を歩いているとあちらこちらからクリスマスソングが流れてくる中,とあるレコード店から耳懐かしいこの曲が流れてきた。何で今ごろこんな曲がと不思議な思いもしたが,思わず口ずさんでいたぼくに,あの日の思いがよみがえってきた。この曲は1947年(昭和22年)から始まったNHKのラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題曲で,このドラマも主題曲も大変人気があり、翌年松竹によって映画化されたそうだ。そしてこの映画が僕の記憶に残るもっとも古い映画になるのである。というのも,・・・
僕がちょうど幼稚園に通っていた頃,当時住んでいた長屋のはす向かいに谷口さんという一家がおられ,たしか同い年くらいの娘さんとその弟がいて,この谷口さん一家に連れられてこの「鐘の鳴る丘」の映画を見に行った。映画館は当時僕の通っていた「三郷幼稚園」の近くにあり,家から4kmほどのところにあった。今となってはこの映画の内容などまったく覚えてもいないが,とても悲しくて悲しくていたたまれず,谷口さんには内緒でこそっと映画館を抜け出した。冬場だったような気がする。外に出ると寒くて寒くて,しかももうすっかり夜の帳も下り,通いなれたはずの道もわからなくなり,何時間かかって家にたどり着いたであろう。玄関の戸を開けると,父と母が飛び出てきて,普段は優しい両親にこっぴどく叱られたことを覚えている。
今は亡き母が,この曲がラジオから流れてくると僕がよく涙を流していた,といつも優しく僕を見つめて言っていた。
[追記]
「かーねがなります きーんこーんかーん」なんですね。ご指摘いただきありがとうございます。
今までずーっと「ちーんこーんかーん」とばかり思っていて、そのように口ずさんでいました。
でもこのままにしておきます。