わが愛車DAHON

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 標高差600mの那智山(南紀勝浦)を駆け上り、京都・奈良を散策し、中国上海を駆け巡った愛車DAHON。その華奢な躯体は重量わずか8.6㎏である。20インチ自転車では世界最軽量の総アルミ製だ。これを担いで列車に乗り、船に乗り、知らない街を、知らない道をどのくらい訪ね、駆け抜けたことだろう。風を全身に感じながら薫風を胸いっぱいに吸い、心安らぐ田園を通り抜け、はたまた、街の雑踏をかいくぐりかいくぐり、車の警笛を四方から浴びながら、それでも快走をつづけたDAHON。
でも・・・でもね、多く感じたことがある。
特に日本で感じたことは、道がまるで車の専有物になっていること。どんな田舎に行っても車が走る車道だけは整備も行き届き、スーイスイ。渡れない谷はなく、越えることのできない峠もない。ところがどうだ、人は?自転車は?いったいどこを通ればいいの?というところがいたるところ。やむなく車と同じ道を行くことになるのだが、傍らを猛スピードで警笛を鳴らしながら車が追い越して行く、地響きを轟かせながら大型トラックが通り過ぎてゆく、怖いの何のったらありゃしない。街中でも同じだ、最近は色とりどりのレンガや石を敷き詰めた立派な歩道があって、そこを自転車でも行けるのだが、自転車にとってはまるで快適ではない、デコボコだらけで、辻、辻では段差があってガタンボコン、そして少し郊外に出ても歩道は車道のつけたし。幅はますます狭く山あり谷あり、まるでジェットコースターのような歩道。その先は上で述べたとおり。
いったい車って、何様だーい。こうして全国、道という道をすべて我が物にしてしまい、昔いい遊び場だった道から子供達を追い払い、そのため子供達は今どうなってしまったの!? 町中の細い道まで行き交う車にみんなが神経を使い、道端の立ち話も、床几に腰掛けての夕涼みもなくなっちゃった。
あーあ、もっと深刻に考えてくれよ。道はさあ、もともと、行き交う人にとっても、そこで生活する人にとっても最大の交流の場であったはずだのに、今や危険と排気ガスをまき散らし、人と人を分断する檻の囲いになっちまった。
それにさあ、小型車も大型車も4,5人乗りの車に乗っているのはほとんどが一人、多くても二人、いったい、車が人を運んでいるのか、人が車を運んでいるのか、わかりゃしない。それに比べりゃ、今や時代の最先端を行くエコ乗り物、自転車、これをこんな除け者にしていていいの?
その点、中国はいい所あるね。大都市ではたいがい幅広い自転車専用道が確保されていて、車の心配はない。道の状態も車道の一部を使っているから滑らかで走りやすい。自転車乗りのとっては最高だよ。ただね、最近はここにバイクや電動自転車が相乗りしてきて、これは困ったもんだ。
さて、今日はこれから近くの海にDAHONで出かけるとするか。

誰か故郷を想わざる

♪♪♪ 誰か故郷を想わざる♪♪♪

小学校に行くか行かない頃だったと思う。戦後間もない頃で、娯楽といったらラジオくらいしかない頃であった。ある日、家で何をしていたんだろうか、突然外からレコードに合わせて誰かが歌うマイクの声が聞こえてきた。外に飛び出てみると、近所の「共産党のおっちゃん」が見かけによらず上手に歌を歌っている。見かけによらずといったのは、この「おっちゃん」、普段は「どもり」(差別用語かもしれませんが、あえて使わせてください)で、それほどの年でもなかっただろうにお頭(おつむ)がちょっと薄い。びっくりした。道の真中には石炭箱を並べた「にわかステージ」がしつらえてあって、まわりには近所中のおばちゃんやおっちゃん、それに子供たちも交えて、やんやの喝采を送っている。実にうまい、と子供心にそう思った。その歌が、もちろん後にわかったんだが、この「誰か故郷を思わざる」である。
「共産党のおっちゃん」を皮切りに、近所の人たちが次から次と「ステージ」に上って、あまり音の良くないマイクで、「ホワーン、ホワーン」とうなりを出すレコードに合わせて、みんな得意満面に歌っている。掛け声が飛び、指笛が飛び、誰が用意したのか紙テープまで飛ぶ。一大コンサートだ。
ああ、こんな時代があったんだなあ。みんな貧しかったけれど、実に明るかった。歌声も澄んでいたし、何か「希望」のようなものがあった。人と人を結びつける連帯感というものがあった。
人にとって「幸せ」っていったい何だろう。
昔はよかった、昔はよかった、いつの時代も年取った人たちの口癖だ。
自分たちが生き生きと、一所懸命生きた時代がいちばんなんだ。
今の時代の愚痴は言うまい。

顔面体操

 
5年ほど前に「突発性難聴」に襲われた。ベッドに横たわってテレビを見ていて気付いたんだが、左耳を伏せるとそれまで聞こえていたテレビの音声がほとんど聞こえない。翌日さっそく病院に行くと「突発性難聴」という診断。それから「ステロイド療法」とかさまざまな治療を試みたが、結局は治らないまま。
それと前後してだが、水を飲みそこなったとき、普通ならむせるんだが、そのむせることもできず、およそ1分間くらいだろうか実に長く感じるんだが、息を吐くことも吸うこともできなくなって、このまま死んじゃうんじゃないかと思うほどの恐怖を感じることが起こり、七味唐辛子やラー油といった刺激物がのどを通るときにも同じ症状が起こるので、これも病院で検査を受けたんだが、注意して水を飲むようにという忠告を得ただけ。
さらに、2年ほど前から、いわゆる「耳管開放症」といって、のどと内耳を通じて鼓膜内外の大気圧を調整している耳管が、普段は閉じているはずなんだが、これが開きっぱなし、という不快な病に取り付かれ、これはネットで調べたら、これも現在では適切な治療法はなく、ただ漢方薬の「加味帰脾湯」が効果ありとのことで、中国滞在中に漢方薬店で調剤してもらって服用を続けたが、結局ダメ。
上のどれもが多分「老い」からくる神経系の機能不全が原因でもう半ばあきらめていたんだが、あるとき、科学雑誌か何かでアインシュタイン博士が舌を「べろっ」と出している写真が掲載されていて、いったいこれは何の写真だろうと不思議に思ったことがある。
これがヒントになって、そうだ上の病はすべてのどから上の頭部にあって、その機能不全から起こっているんだ、よしっ、この機能を回復してやろうと思いついたのが「顔面体操」。
朝起きたとき、いつもしている腹筋運動、腕立て伏せとラジオ体操に加え、鏡の前であのアインシュタイン先生の「べろ出し体操」を30回、ひょっとこ、おかめ、しわくちゃばばあ(いや、じじい)、はんにゃ、ピエロ、チャップリン、などなど、顔中の筋肉を動かしまわす「顔面体操」、眼球を思いっきり上、思いっきり下、思いっきり右、思いっきり左、そしてぐるぐる回転の「目玉体操」、最後に乾いたタオルで顔面、首筋、耳の後ろを摩擦する「マッサージ」を毎日毎日繰り返した。
まだ実行し始めてから8ヶ月くらいだが、確かに効果があるような気がする。右耳の聴力は10デシベル程度だが改善され多少はよくなったし、呼吸困難症もそれからは一度も起こっていないし、耳管開放症もかなり改善しているように思われる。
このブログを読んでいただいた人にも上のような症状で苦しんでいる人がいたり、身近にそんな人たちがいたら、ぜひお伝えいただいて、試してみていただきたい。
 
[追記]2009年4月18日
この記事にはたくさんの方々のアクセスをいただき感謝いたしております。
その後の経過ですが、「突発性難聴」は現状維持、「呼吸困難症」はそれからも1度も起こっていません。回復著しいのは「耳管開放症」です。上記のような鍛錬法の結果なのか、自然治癒なのか判断できませんが、ほぼ完全に正常に回復したように思います。
 
「口内炎」について一言。
食事中に口の中をかむことが多く、事後必ずと言っていいほど「口内炎」にかかり、1週間ほどは痛くて食事もしづらいほどだったのですが、ご飯を「玄米」1に対して「白米」2の割合で作り出してから、この「口内炎」が全く起こらなくなりました。ご参考になれば。
 
[追記]2009年8月31日
「嚥下障害」の話題がテレビで取り上げられていました。本稿の「べろ出し体操」をぜひ試みてください。非常に有効だと体験的に感じています。

 
[追記]2024年10月14日
この記事を投稿してはや15年になります。たくさんの方々にアクセスしていただいて感謝の言葉もありません。寄る年波には勝てず、体のいたるところに「体勢疲労」がきています。しかし、この「顔面体操」は続けていて、効果はあるように思います。

日本人の品格

16世紀半ば、日本は戦国時代で群雄が割拠し、打ち続く動乱で世の中がどの時代よりも疲弊していた時代に来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、その著『ザビエルの見た日本』にこんなことを書いている。

「この国の人々は今まで発見された国民の中で最高であり、日本人より優れた人々は、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心が強い人で、他の何ものよりも名誉心を重んじます。大部分の人は貧しいのですが、武士も、そうでない人々も、貧しいことを不名誉とは思っていません。」
その後徳川の時代になり、長く鎖国が続くわけだが、その末期にはまた多くの外国人が日本にやってくる。
彼らが見た日本は一様に驚嘆すべきものだった。道徳心が高く、清潔で、一般庶民が読み書き算盤をこなし、いたるところに高い芸術性を備えた文化と伝統を保持している。慄然とせざるをえないものがあったのであろう。世界は重商主義から産業革命を経て、帝国主義時代に入っていて、植民地をどんどん拡大していた時代だ。日本も当然その対象になっていたとしてもおかしくない。しかしどの国も手出しはできなかった。
徳川末期には日本からも様々な使節がアメリカ、ヨーロッパに派遣されているが、ちょんまげに帯刀したその姿からは想像もできない気品と格式を備えていて、これもまた異国の人たちを驚かせた。
アメリカのボストン美術館は日本の絵画、彫刻を買いあさり、ヴァン・ゴッホはなんとか日本に行きたいと思い続けた。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は鈴虫を大切に育てその音色を愛でる日本人の繊細な心に打たれ、日本人以上に「国粋主義者」になってしまった。アインシュタインは初来日の折、日本人の持っている優美な芸術・伝統、個人に必要な謙虚さと質素さ、純粋で静かな心、そのすべてを兼ね備える「美しい日本」を心あつく語っている。
明治政府の元勲もまたしかり。彼らの多くは明治維新のときは、岩倉具視が40才を少し超えて最高齢、伊藤博文、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛など等みんな40才以下だったから驚きだ。中でも「国賊」西郷隆盛は明治政府の最高幹部に上り詰めた時にもその清廉潔白さで知られ、政敵からも福沢諭吉、内村鑑三、新渡戸稲造といった主義主張を異にした人々からも深く尊敬されていた。
NHKの大河ドラマ「篤姫」で西郷がどのように描かれていくか、たのしみにしている。
 
こうした日本を思い起こすとき、今の時代は果たしてどこに「日本人の品格」を見出したらいいのだろう。
四川大地震で日本の救助隊が亡くなった中国人母子にささげた最後の敬礼は「日本人の品格」をかろうじてつなぎとめている。

ひとり言

さん太は山歩きが大好きです。いつも一人です。別に人が嫌いなわけではありません。家族、友人がいないわけではありません。なぜなんだろうと今も考えてみます。でもわかりません。そうだ、きっと日常生活から解き放たれた“自由”というやつがあるからだろう。そう言えば、さん太は若いころからよく口ずさむ歌があります。

 

 

今の若い人達を見ていると本当に自由です。好きなものを買い、好きなものを食べ、好きなことをしているように見えます。さん太にはあんな自由があったんだろうか。いつも何かに追い立てられ、何かに縛られている。人間関係であったり、仕事であったり、お金のことであったり。ひょっとしたらこのまま死ぬまで”自由”というものを味わえないのではなかろうかと思えるほどです。
だから一人山を歩きたくなるのかもしれません。
どの山も初日がきつい。ときには1,000m、2,000mを一気に登らねばならないことがある。考えてみるに、あのきつさには三つのわけがありそうです。ひとつは、重力に逆らって1,000m、2,000m登る物理的なきつさ。二つ目は、ふだんの運動不足からくるきつさ。そして三つ目は、俗世間とのしがらみを立ち切るきつさ。
そしてこの三つのきつさから開放されたときの爽快さが忘れられない。汗まみれの下着を脱いで冷たい湧き水で体を拭き、新しい下着に替えたときの心地よさ。早めの昼食の準備を始めるころから、もう心はうきうき。あったかい味噌汁をすすりながら、今晩はどこに泊まろうかな、地図を取り出して宿泊地までのルートを確認する...
道中の心の葛藤は人生の縮図。一面に咲き乱れた高山植物に幾度も幾度もシャッターを切り、切り立った岩肌をトラバースするときには恐怖におののき、はるかかなたに繰り広げられる見事なパノラマにしばし時を忘れ、今歩いている道は本当に間違ってはいないだろうかと不安に駆られ、楽しさと、不安と、恐怖と、寂しさが交互に心をよぎる中、人はこうしていつかどこかで死んで行くんだろうと、むしろ安堵の気持ちが至福をもたらす不思議さ。
思えばわが人生にもいろんなことがありました。雨の日、傘もなくもちろん雨靴もなく小学校に通った日々のこと(これはさん太だけではありません。当時級友の多くがそうだったのです。)、新聞配達先で500円のお年玉をいただき人の優しさを知った中学時代のこと、先生と喧嘩して高校を中退した日のこと、出発10日前に軍事クーデターが起こり中断したアルジェリア渡航のこと、安保闘争に明け暮れ大失恋を味わった大学時代のこと、そして結婚のこと、子育てのこと、仕事のこと、友人のこと、ざっと思い出してもこれはこれでひとつのドラマ。
でも今しみじみ思うんですね。いったい人間てなんだろう。ほんとうに自分の意志で生きているんだろうか。こちらに行きたいと思っていたのに、あちらに行っていたり、善だと信じたことが悪であったり、これを選んだはずなのに、こんなものが手に入っていたり、ひょっとしたらやはり神さんがこの世の中で、ぼくにはぼくの役を与えていて、「さあ、この画面を通り抜けるんだよ」というふうに、せめて準主役ぐらいはやりたいのに通行人の役しか与えてくれなかったんじゃないだろうとかね。
わが友人を見てもそうだ。あいつ本当にいいやつだったのに、どうしてあんなハイジャックなんてしでかしたんだろう。あいつはずっと日のあたるところに生きてきたのに、どうしてこいつは刑務所で一生を送ろうとしているんだろう。いったいこいつらどこでどう分かれたんだろう。どちらも本当にいいやつだったのに。
絶対に今でも信じているよ。あいつらはやっぱり神さんからおおせつかった役を演じてきたんだよ。この世の中は舞台で、今生きているみんながお客であり、俳優なんだ。お互い一生を退屈しないように、見せ場見せ場を演じたにすぎないんだよとね。そうでも思わないと、やりきれないよ。

 

「人間なんて所詮5円玉にひょこなんと座った存在さ」といったようなことをチェーホフが言っていましたが、さん太はこの表現が大好きです。

鐘の鳴る丘

 
♪♪♪鐘の鳴る丘 ♪♪♪
 
 
みどりのおかの あかいやね とんがりぼーしの とけいだい かーねがなります ちーんこーんかーん・・・

暮れも押し迫り,街中を歩いているとあちらこちらからクリスマスソングが流れてくる中,とあるレコード店から耳懐かしいこの曲が流れてきた。何で今ごろこんな曲がと不思議な思いもしたが,思わず口ずさんでいたぼくに,あの日の思いがよみがえってきた。この曲は1947年(昭和22年)から始まったNHKのラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題曲で,このドラマも主題曲も大変人気があり、翌年松竹によって映画化されたそうだ。そしてこの映画が僕の記憶に残るもっとも古い映画になるのである。というのも,・・・

僕がちょうど幼稚園に通っていた頃,当時住んでいた長屋のはす向かいに谷口さんという一家がおられ,たしか同い年くらいの娘さんとその弟がいて,この谷口さん一家に連れられてこの「鐘の鳴る丘」の映画を見に行った。映画館は当時僕の通っていた「三郷幼稚園」の近くにあり,家から4kmほどのところにあった。今となってはこの映画の内容などまったく覚えてもいないが,とても悲しくて悲しくていたたまれず,谷口さんには内緒でこそっと映画館を抜け出した。冬場だったような気がする。外に出ると寒くて寒くて,しかももうすっかり夜の帳も下り,通いなれたはずの道もわからなくなり,何時間かかって家にたどり着いたであろう。玄関の戸を開けると,父と母が飛び出てきて,普段は優しい両親にこっぴどく叱られたことを覚えている。

今は亡き母が,この曲がラジオから流れてくると僕がよく涙を流していた,といつも優しく僕を見つめて言っていた。

 

[追記]

「かーねがなります きーんこーんかーん」なんですね。ご指摘いただきありがとうございます。

今までずーっと「ちーんこーんかーん」とばかり思っていて、そのように口ずさんでいました。

でもこのままにしておきます。

 

幼児虐待

 
 最近しばしば幼児虐待の事件が報じられ、どうして罪もない子供に、ましてやかわいい我が子にそんな残虐なことができるのか、多くの人々に理解しがたいこととして受け止められています。
 実はこれはなかなか根深い問題で、何も今に始まったわけではなく、昔からさまざまな事例が報告されていますし、西洋社会にももっと残酷な幼児虐待の事例が記録に残っています。
 文学の世界でも有名なのは、19世紀のロシア文学の世界的巨匠といわれているドストエフスキーの作品である「カラマーゾフの兄弟」の中で、兄のイワンが弟の修道僧アリョーシャに、幼児虐待のさまざまな事例を引き合いに出して、人間のなかに潜む不条理を論じている場面があります。

 「いいかい、もう一度はっきり断言しておくが、人間の多くのものは一種独特な素質を備えているものなんだ。―― それは幼児虐待の嗜好だよ、しかも相手は幼児に限るんだ...まさに子供たちのかよわさが迫害者の心をそそり立てるのさ。逃げ場もなく、頼るべき人もいない子供たちの天使のような信じやすい心、これが迫害者の忌まわしい血を燃え上がらせるんだ。」

 こうした人間の持つ嗜虐性は、幼児に限らず、いじめの問題にも、人種差別の問題にも、はたまた中東やアフリカで繰り返される憎しみの連鎖などにもあらゆる場面で発揮されます。最近日本だけに限らず、世界のあらゆる場所で繰り返されるこうした残虐行為は、人間の根深いところに内在する本性かもしれません。ただ今日的な問題としては、そうした残虐行為が、一瞬にして全世界の知るところとなり、誰の目の前にもまるで現場に居合わせたかのように露呈されることです。こうした環境に生まれ育つ現代人が、も一度イワンとアリョーシャの会話に耳を傾けつつ、人間に内在する嗜虐性をいかに封じ、この21世紀的環境をどのように受け止め、どのように対処していくべきか、我々一人ひとりが自身の問題として問い詰め、身近なところから行動を起こしていかなければ、明日もまた悪しき歴史を繰り返すことにはならないか

微かな怒り ― もの思わする秋 ―

 

最近とみに筆不精になってきた自分を感じる。もともとそれほどまめではなかったにしろ、これは心がなえてきている証拠だ。

物に感じ、心驚かし、涙し、怒り、若いころはもっと心にも起伏があって、語らずにいられない何かがあったはずなのに。日常の生活、己の食わんがための生活ばかりに気をとられ、心の狭窄症を患い始めているような気がしてならない。 台風一過、といってもはるか太平洋のかなたを通過して、ここら辺りはなんらそれらしい影響もなかったわけだが、気温もぐっと下がりあわただしく秋が近づいた。日盛りが過ぎると日の影が長くなり、軒先の鳳仙花にも早々とその影を落とし始めた。 もの思わする秋、時には命をも落とすような酷暑をしのぎ、やっと生きながらえた安堵がもの思わするひと時を与えてくれるのだろう。夜ともなれば、都会の小さな公園にもこおろぎの声が聞こえる。この虫とても命強いものだけがこうしてラブコールを送ることができるのだ。
その同じ公園にダンボール仕立てのねぐらが最近とみに増えてきた。事情はさまざまだろうが、この人たちも望んでここに住み着いたわけではないだろう。家族があるのかないのか、その日の糧をどうして得ているのか、それでも生きんがために雨露をしのぎ、かすかな明かりをねぐらにともし、明日への活力を養っているのだろう。人はなぜこうしてまでも生きなければならないのか、わが身に引き換え、心が締め付けれる思いがする。 またその一方では、テレビや何やらで、豪華絢爛に身をまとい、人を威圧し、あたかも人の為だとかなんだとか声高に叫び、胡散臭く思えそうな「人生勝ち組」の人がやたら跋扈する。料理番組だかなんだか知らないが、能のないディレクターが仕組んだのだろう、浅ましくも群がる「タレント」たちに世界のグルメを大奮発。これもこの世の絵巻といってしまえばそれまでだが、あまりの格差と矛盾になえた心に、またかすかな怒りがこみ上げる。 もうよそう。こおろぎの声を聞きながら、秋の夜長を心鎮めて眠りに付こう。