だから一人山を歩きたくなるのかもしれません。
そしてこの三つのきつさから開放されたときの爽快さが忘れられない。汗まみれの下着を脱いで冷たい湧き水で体を拭き、新しい下着に替えたときの心地よさ。早めの昼食の準備を始めるころから、もう心はうきうき。あったかい味噌汁をすすりながら、今晩はどこに泊まろうかな、地図を取り出して宿泊地までのルートを確認する...
道中の心の葛藤は人生の縮図。一面に咲き乱れた高山植物に幾度も幾度もシャッターを切り、切り立った岩肌をトラバースするときには恐怖におののき、はるかかなたに繰り広げられる見事なパノラマにしばし時を忘れ、今歩いている道は本当に間違ってはいないだろうかと不安に駆られ、楽しさと、不安と、恐怖と、寂しさが交互に心をよぎる中、人はこうしていつかどこかで死んで行くんだろうと、むしろ安堵の気持ちが至福をもたらす不思議さ。
思えばわが人生にもいろんなことがありました。雨の日、傘もなくもちろん雨靴もなく小学校に通った日々のこと(これはさん太だけではありません。当時級友の多くがそうだったのです。)、新聞配達先で500円のお年玉をいただき人の優しさを知った中学時代のこと、先生と喧嘩して高校を中退した日のこと、出発10日前に軍事クーデターが起こり中断したアルジェリア渡航のこと、安保闘争に明け暮れ大失恋を味わった大学時代のこと、そして結婚のこと、子育てのこと、仕事のこと、友人のこと、ざっと思い出してもこれはこれでひとつのドラマ。
でも今しみじみ思うんですね。いったい人間てなんだろう。ほんとうに自分の意志で生きているんだろうか。こちらに行きたいと思っていたのに、あちらに行っていたり、善だと信じたことが悪であったり、これを選んだはずなのに、こんなものが手に入っていたり、ひょっとしたらやはり神さんがこの世の中で、ぼくにはぼくの役を与えていて、「さあ、この画面を通り抜けるんだよ」というふうに、せめて準主役ぐらいはやりたいのに通行人の役しか与えてくれなかったんじゃないだろうとかね。
わが友人を見てもそうだ。あいつ本当にいいやつだったのに、どうしてあんなハイジャックなんてしでかしたんだろう。あいつはずっと日のあたるところに生きてきたのに、どうしてこいつは刑務所で一生を送ろうとしているんだろう。いったいこいつらどこでどう分かれたんだろう。どちらも本当にいいやつだったのに。
絶対に今でも信じているよ。あいつらはやっぱり神さんからおおせつかった役を演じてきたんだよ。この世の中は舞台で、今生きているみんながお客であり、俳優なんだ。お互い一生を退屈しないように、見せ場見せ場を演じたにすぎないんだよとね。そうでも思わないと、やりきれないよ。