戦後70年

☆★☆ 植村眞久海軍大尉の遺言 ☆★☆

今年2015年は戦後70年の年になる。70年が切れの良い年なのかどうか、三四半世紀(75年)という区切りの言葉はあるから、2020年、つまり東京オリンピックの年はまさしく戦後75年、戦後三四半世紀ということになり、今年以上に切れの良い年ということになる。
それはそれとして、戦後70年になる今、国会では安全保障関連法案を巡って与野党の論戦が繰り広げられていて、テレビをはじめマスコミがこの問題を取り上げない日はない。70年という区切りが意識されていることは確かだ。
内外の情勢は、日本国憲法ができたころとはまるで違ってきている。
特に隣国中国の凄まじいほどの発展とそれに伴う国際的影響力は今や東洋だけでなく世界にとっても台風の眼になっている。
一昔前までは、冷戦という言葉が国際問題のキーワードになっていたように、アメリカとソ連の対立が世界政治の中心であったが、片方のソ連が崩壊しロシアになってからは冷戦という言葉自身も消えてしまった。
今はアメリカと中国が世界の大きな台風の目、二極になっている。中でも、中国の領土拡大主義は異様なほどである。東シナ海における我が国との尖閣諸島問題、南シナ海における周辺諸国とのスプラトリー(中国名・南沙)諸島問題。中国は秦の始皇帝以前から常に領土拡大政策は中国という領土を治めていくうえでの政治の要諦中の要諦で、そうしなければ内部崩壊を常にはらんでいる内政が立ち行かない。今だって、中国共産党という元や清とそう大して変わらない「王朝」は、いかに領土を束ねるかに腐心する伝統を引き継いでいるのである。そのための一つの手段が領土拡大政策で、内部の矛盾とそこから吹き出す内部崩壊のエネルギーというかベクトルを常に外向きに外向きに向かねばならない。全くはた迷惑な国なのである。
世界はそれだけではない。ISIS(イラク・シリア・イスラム国)という、エボラウイルスやMERSコロナウィルスと同じように、これまでには経験したことのないような「拗ねた集団」が世界を揺るがし、ソマリア沖には巨大な海賊集団が出没し、ホルムズ海峡はいつ何時封鎖されるかわからない、ざっと上げただけでも、いま世界は再び第二次世界大戦前夜と同じような状況に遭遇しているのである。
日本国憲法は確かにすばらしい。できたらこの憲法を堅持して国際社会に堂々と乗り出していきたい。
理想と現実は人ひとりにとってもなかなか折り合わないことが多いように、複数の人との付き合い、商取引、ましてや世界の国々との付き合いとなれば、折り合わないことを前提にして事に当たらなければ、国そのものの存亡にもかかわってくる。
生きていく為には戦わなければならないのは、人も国も同じだ。
国会での安全保障関連法案を巡っての論戦を見ていても、やはり平和ボケの症状は深刻だ。1936年に国のとぼけた政治家に業を煮やした青年将校たちが起こした2・26事件のようなことは起こらないだろうが、起こってもおかしくない状況は同じだということに気づいていない国会議員が多すぎる。
この時期、いつも思い出すのが、高校時代に読んだ「きけわだつみの声」の声である。強烈に印象に残った。
youTubeで知った上の「植村眞久海軍大尉の遺言」が「きけわだつみの声」にあったかどうか定かではないが、特攻隊崩れの鶴田浩二が読み上げる遺書には、何度聞いても涙が込み上げてくる。
どうか日本が再びこういう惨禍に見舞われることのないように安全保障関連問題も、もっと根本的には、日本国憲法そのものをもっともっと真剣に、国民の一人一人が考えてほしい。

突発性めまい

突発性難聴という言葉は聞いたことがあるが、突発性めまいという言葉は聞いたことがない。ぼくの造語だ。

今年のゴールデンウィークは東京にいる孫の世話に駆り出された。次の孫が誕生するんだが、早産気味でママが入院することになり、普段は北海道にいるママ方の母親と関西在住のこちらの母親が交代交代で東京に出かけ、今の孫の世話をしている。
東京までは新幹線で行けばいいのに、向こうでも車があれば何かと便利だろうという、今から思えば浅はかな思いから車でと相成った。
今年2歳になった孫は元気元気。体は大きいし、よく食べ、よく遊ぶ。ママ方のお婆さんが集めたというチョロキュウがお気に入りで、遊び出したら止まらない。ぼくを相手に、2メートルほど離れて座った孫とチョロキュウのやり取りだ。これが朝晩家にいる限り1、2時間は続く。
昼間は近くの公園に行ったり、児童館に行ったり、買い物に出かけたり、時には少し遠出をして、ぼくの希望もあり、鎌倉を訪ねたり、柴又の寅さん所縁の帝釈天、矢切の渡しを訪ねたり。
そしてゴールデンウイークの最後にダウン。

ふらふらふらふらして真っ直ぐ歩けない。歩いていても崩れ落ちそうになる。めまいといえばくるくるくるくる周りが回るものだと思っていたが、こういうのもめまいだということは初めて知った。立ちくらみは若いころからも何度もあったし、誰にでも起こることなんだそうだが、こんな体験は初めてだ。
家に戻ってソファに静かに横たわっていたんだが、しばらく経つと吐き気がしてくるし、冷や汗が出だした。ちょっと心配になってきた。歳が歳だし、疲れからくる一過性のめまいであればいいんだが、脳や心臓に原因があったりしたら大変だ。連休中だしどこの病院も閉まっている。大袈裟で迷惑をかけるのも嫌だと思ったんだが、救急車を呼ぶことにした。10分位で救急車が来てくれたんだが、意識が薄れていたのか、そのあたりからは朧げだ。
運ばれた病院では、当直の若い医師が、指先の検査をしたり、立って歩行をさせたりして、脳には当面障害が見受けられないということで、次に心電図をとってみたが、これもおおむね正常。残るは三半規管系統だが、これは担当医師もいないし、緊急事態でもないので、家に帰って安静にし、後日詳しく診断しておくようにと言われて帰宅した。
翌日になってもふらつきが止まらない。車は東京において新幹線で大阪に帰ることにした。新幹線での車中、インターネットでいろいろ調べてみたんだが、メニエール病その他で起こるめまいは短くて数秒、長くても数分程度で収まり、それが頻繁に起こるかどうかが単なる一過性のめまいか、何らかの病理現象によるものなのかの違いだという。ぼくのようにめまいが長時間続くようなら、まず考えられるのは前庭神経炎、そしてやはり脳梗塞とか脳血栓に伴うめまい、あとは脳への血行障害。心臓は東京の救急病院で問題なしの診断が下っているので、椎骨あたりの血行障害が気がかりだ。

帰阪した翌日、まず脳神経外科を訪ねた。そこにはCTスキャンしかないのでとりあえずそれを受けたが、脳梗塞、脳血栓の兆候はなく、脳への血行障害に関してはMRIでしかわからないというので、設備のある病院を紹介してもらった。その足で次に向かったのが耳鼻咽喉科。ここはアレルギー治療で現在通院しているので、今回の症状を説明したら、まず問診から始まり、眼振検査、体平衡検査、聴覚検査と続き、三半規管の何らかの異常が原因であろうが特定できないとのこと。考えられるのは、やはり予想した前庭神経炎か、三半規管内のリンパ液濃度の異変によるものということで、とりあえず前庭神経炎を抑えるためステロイド剤の点滴を受けた。三半規管のリンパ液濃度の調整剤は、眼圧や脳圧の降下剤に使われるイソバイドを処方してもらった。
翌日紹介してもらった病院でMRIの造影をしてもらい、昨日の脳神経外科医院に持ち込んだら、脳への血行障害も見当たらないとのこと。
結論としては、やはり前庭神経炎あたりが今回のめまいの原因のようだ。

この前庭神経炎、他が原因であるめまいと違って、激しい回転性のめまいが急に起こり、普通それが数日〜1週間程度続き、めまいには、吐き気や嘔吐、冷や汗を伴うが、難聴や耳鳴りなどの聴覚の症状を伴わないのが特徴。めまいはその後、少しずつ軽くなっていくが、発症から1週間程度は歩行に困難を感じ、めまいは発症から3週間くらいでほぼおさまるが、体を動かした時や歩く時のふらつきは、しばらくは持続するのが一般的。時には6カ月くらい経ってもふらつきが持続することがあるとのこと。
原因は不明だが、めまいが起こる前にかぜのような症状があることが比較的多いので、ウイルスなどの感染が原因として考えられているそうだ。

前に右耳を突発性難聴が襲い、ステロイド両方その他で治療したがとうとう治らず今に至っているが、どうも右耳はウィルス感染しやすいようで、疲れがたまった時など免疫力が低下した時ウィルスの勢いが増し、前庭神経を攻撃されたようだ。ぼくが名付けて突発性めまいということになる。
突発性難聴もそうだが、今回の突発性めまいもはたして完治するのか。完治しなければこのめまいとも付き合っていかねばならない。
昨日からまた早朝のウォーキングを始めたが、これも一種のリハビリで、人間には損傷したところを補完する人体力学が作用するに違いないと信じるからだ。

あおり運転

以前にも車の運転マナーについて投稿したことがあるが、(「理不尽なこと」)今回は「あおり運転」についてである。
「あおり運転」という言葉は知らなかったが、検索サイトに「運転 接近」と入力したら出てきて知ったのがこの「あおり運転」という言葉で、Wikipediaに詳しく載っていて、『安全な車間距離を取らずに前車に接近する行為は、道路交通法26条が禁止する車間距離不保持に該当する。』ともあり、高速道路では刑事罰、一般道路では反則金規定まであることを初めて知った。
というのも、最近立て続けにこの「あおり運転」に遭遇し、実に不愉快で迷惑な思いをしたので調べてみたら、やはり道交法にも規定があったのである。
遭遇した3回のうち1回は、対向車線が離れたところにある片側1車線で渋滞ではないが長い車列ができていて、制限速度50㎞の一般道路でのこと。こちらは前の車とは適度な距離を空け運転していたつもりなんだが、何度か信号で停止、発進を繰り返すうち、後続の車が一台そのあとはずっと目測だが数メートル、バックミラーにはまるでくっついているかに見える距離で追随してくる。最初はうっとうしい気分で我慢をしていたんだが、あまりにも執こく、長時間続くのでハザードランプを点滅させたところ、びっくりしたように一時離れはしたが、しばらくするとまた同じようにあおってくる。前には車列はあるし、譲れるほどの道幅もないし、よっぽど車を止めて注意しようかとも思ったが、それも怖い。2,30分は続いただろうか、やっと片側2車線の区間に出たんだが、相変わらず離れない。再びハザードランプを点滅させると、猛スピードで警笛を鳴らしながらすれすれに追い抜いて行った。窓越しに顔を見ると、どうせ若い奴なんだろうと思っていたんだが、40絡みのいい歳をした男。
もう1回は高速道路でのこと。
片側3車線もある立派な高速道路。その一番左寄りを時速80㎞で走っていたんだが、いつの間にか一台の車が後ろにぴったりついている。右2車線もそれほど車の量は多くないのにどうして追い抜かないんだろうと我慢していたんだが、これもまた執こい。例によってハザードランプを点滅させるとびっくりしたように車間を空けたが、前と同じ、しばらくするとまた急接近し「あおり運転」。ひょっとしたらこの男この車線をを空けよといっているんだなと思って、右の車線に移るとアクセル全開で飛び抜けて行った。
わからん。こちらに何か落ち度があるんかと考えてみたんだが、車間距離、速度、運転マナー、どれをとってもそれほど迷惑をかけるほど運転しているとは思えないんだが、何が気に食わないのかなあ。
車を運転していたら人が変わるとよく言うが、変わるというよりは本質が出てしまうのが車の運転なんだと思う。
今日も町の狭い道で、手押し車を曳く白髪の腰にまがったお婆さんが道を渡ろうとしている。向こうからも車が一台。こちらも車を止め、向こうも止まってお婆さんが横切るのを見守っている。お婆さんが渡り終わって、こちらと向こうがお互いに譲り合ってすれ違おうとすると、向こうの若い男性が、ニコッと笑って先通れのしぐさをするので先通り抜けた。いい気分だ。
車社会となって久しいが、日本のいたるところで、こうして車を通しての悲喜こもごもの人間模様が繰り返されているんだろう。

今年のさくら ― 2015 ―

 
今年の桜は、大阪では4月3日にピークを迎えた。この日の天気は晴れ、といっても全くの快晴というわけでもなく、黄砂の影響もあるのかうっすらと霞のかかったお天気だ。最高気温22.7度、最低気温10.6度、歩いていても汗ばむほどの陽気だ。ちょうど1週間前の3月26日のお天気が、最高気温14.4度、最低温度2.9度という真冬並みの寒さだったからなおさら暑く感じる。
先週から愚図ついたお天気でこの4月3日だけが晴れ、明日以降も来週いっぱいまで雨模様だそうで、テレビのお天気のお姉さんがこの日だけがお花見のチャンス、どうぞお出かけくださいと呼びかけていたので、それではということでお花見に出かけることにした。
最近はわざわざお花見に出かけなくても、いたるところに桜が咲いていて、車を運転していても、道の両脇に並んだ桜並木から舞い落ちた花びらが黒いアスファルトの上でくるくる舞っていて思わずスピードを落とすこともある。窓を開けていると車の中に花びらが飛び込んでくることもある。本当にどこも桜、桜、桜だ。
それでもお花見に出かけるのだから、お花見には別の意味があるに違いない。
長い長い冬を潜り抜けて、梅が咲き、桃が咲き、桜が咲くと何もかもがパーッと明るくなる。あの桜の花の咲き様はなんだ。枝もたわわにという表現があるが、たわわどころではない。なぜあんなに花をつけなければならないんだろう、一本の桜に咲く花びらの数は一体いくつあるんだろうと思ってしまうほどだ。一本の桜の木でもそうなんだから、それが何十本、何百本と並んだお花見どころは圧巻としか言いようがない。それに酔いしれたいからお花見に出かけるんだ。生きる勇気が湧いてくるというか、その生気を身体いっぱいに染み込ませたいから出かけるんだ。
今年は、大阪の浜寺公園に出かけた。
昔は白砂青松、白い砂浜に青い松が延々と並び、『小倉百人一首』にある祐子内親王家紀伊の「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れこそすれ」と歌われたほどの大阪一の海岸だった。夏にもなると、関西一圓から海水浴客がどーっと押し寄せたが、今はその面影はない。今でも『日本の名松100選』に選ばれるほどの松は残ってはいるが前には海岸はなく、『マリンスポーツパーク浜寺』という、幅100m、総延長2㎞の漕艇場があって、海には続いているが、その先は大きな埋立地になっていて、そこには大きな石油会社や化学会社が立ち並んでいる。
『マリンスポーツパーク浜寺』の両岸が公園で、どちらにも見事な桜並木がある。
海側の桜並木を散策した。
ピンクがかったソメイヨシノと白っぽいオオシマザクラが交互に並んでいてもう満開だ。向こう岸と違って人も少なく、水面には、落ちた桜の花びらを大きなボラが寄って来て飲み込み、その向こうにはもう2,30㎝にもなったサヨリがたくさん群れを成して泳いでいる。中には水面から高く飛び上がって、折からの陽光を浴び銀色に輝くやつもいる。
漕艇センターの前を通ると、所狭しと漕艇が並んでいて、高校生の漕艇部員たちが艇の手入れをしていたり、体操をしていたり、皆明るくてのびのびとしている。
もう1週間も前に満開を迎えた東京の上野公園には毎年200万人以上の花見客が訪れるそうだが、昨年は4割程度だった外国人比率が、今年は5割以上になったとみられ、中でも人混みで飛び交う中国語が目立つそうだ。「爆買い」から「爆花見」という言葉まで現れたという。大阪でも、大阪城公園にはわんさと外国人が、特に中国や台湾さらにインドネシア、タイというところから押し寄せている。ツイッターを見ると、今流行りの自撮り棒で桜をバックに自分や友達と一緒に撮影した外国人画像がいっぱいだ。
生きとし生けるものすべてが桜に酔いしれているいるようで、こちらまでわくわくする。
こうしてまた1年が始まる。暦では1月が年の始まりだが、命のサイクルは4月から始まる。その門出を華々しく飾るのが我が桜だ。
今テレビを見ているが、またケニアで銃の乱射による死者が127人と出ている。複雑な気持ちだ。
どうか世界の人々よ、いちど日本に来ておくれ。銃を捨てて、憎しみを捨てて、この桜を見りゃ、命の大切さと、生きることの喜びがふつふつと湧いてくるよ。
今年の花見もよかった。

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【さくら関連】
さくらーそして日本人ー
願わくは
今年のさくら ー2013―
今年のさくら ―2014―

私信 ― マッサンにはまってます ―

今日も涙涙です。一馬が出征し、海軍の仕事を請け負うマッサンの工場も空襲を受けるかもしれないと、避難場所と十年物の酒樽の安全確保で大忙しの中、エリーが故郷に手紙を書いています。
「この国の人たちはつらい時に互いに励ましあい、わずかなものを分けあい、助けあい、奥ゆかしく、慈愛に満ちています」
明後日3月11日がまたやってきますね。辛いけれども忘れてはならない一日です。
その時思い起こすのが、いち早く現場入りした外国特派員が母国に向け発信したエリーと同じこの言葉です。
時宜を得たとはこのこと。まさに朝ドラの真骨頂というところですね。朝ドラが受けるわけですね。
脚本がいいのか、演出がうまいのか、俳優陣の演技が素晴らしいのか、多分そのすべてが相まって多くの人に感動を呼び起こし、国民的人気を得ているんだと思います。
ぼくなんか、ドラマなんてついぞ腰を落ち着けて見たことがない。別に嫌いじゃないんですが、今まではそんな時間もなかったし、どうも辛気臭いのが嫌で、もともとテレビもそんなに見ないんですが、見るといえばどうしてもニュースものに偏りがちだったんですね。
ところがこのところ、NHKのオンデマンドを利用するようになって、好きな時に好きな番組を見られることに味を知り、好きなドキュメンタリーとか教養番組はもちろん、その合間にドラマもよく見るようになった。
どのドラマもいい。脚本もそうだし、演出、俳優の演技、昔と比べたらそりゃあ良くなっていますね。その時代のその時代の特徴があって一概には比べられませんが、昔のを見るとやはり合わない。時代の流れというものがあって多分向上もしているんでしょうが、変化していることは事実ですね。
大河ドラマも「風林火山」あたりから見るようになって、次の「篤姫」は初めから最終章まで初めて全編見ましたね。それではと、ずっと昔のを見てみようと見ましたが、腰折れた。やっぱり辛気臭いんです。
朝ドラで目覚めたのが「あまちゃん」、これも初めて全部見ました。主演の能年くんの素人ぽさと脇役陣の絶妙な取り合わせと、それにオープニングテーマが強く印象に残りました。
そして今見ている「マッサン」、これも途切れることなく見ています。最近は傍らに必ずタオルを置いてのウオッチです。誰か突然訪れて、涙目では恥ずかしいですからね。
言っちゃあ悪いが、主役のマッサンはあまり上手くない。エリーがいいですね。ぞっこんです。よくこんな俳優を見つけたもんだ。外国人とは思えないほど日本人の心をとらえていますね。それにやはり脇役陣。小池君なんてボインで有名だとは知っていましたが、ここでは何とも言いようのないいい雰囲気を出している。見直しましたよ。
あれやこれや好き勝手な感想を書きましたが、もうすぐこのドラマもおしまいだとか。
3月11日とエリーの手紙が重ねあって、ついお便りしたくなりました。
悲しく辛い思い出ですが、幸せな気分にもなっています。
お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りすると同時に、この幸せ感をいただいている感謝の気持ちを率直に申し述べます。

神の国

今から15年前の2000年5月15日、時の内閣総理大臣森喜朗が、神道政治連盟国会議員懇談会において、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々(=神政連関係議員)が頑張って来た」と発言し物議をかもしたことがある。いわゆる「神の国発言」である。
その詳細はWikipediaにも「神の国発言」として載っているが、内閣総理大臣の発言としてはいかがなものかと思うが、野党、特に共産党や朝日新聞、毎日新聞のように目くじらを立てて批判するほどのものではなく、全体としてはまっとうなことを言っているのではないか。
日本が「天皇を中心とした神の国」であるかどうかは俄かには首肯しがたいというか、正直わからないが、日本の歴史を見たとき、天皇が中心かどうかはともかく連綿と継続的に存在してきたことは事実だし、外国から見ても、日本は天皇の国だと思っているだろう。
ギネスブックにも「日本は最古の国」と認定されているそうだが、世界の歴史が王朝が交代する歴史である中、紀元前660年2月11日建国という事実認定は置くとしても、日本が世界最古の国であることは確かだし、誇りにしていいことだと思う。
ちなみに、「中国6000年の歴史」とかなんとかよく言うが、これは国として歴史ではない。中国の建国は1949年なのである。世界で3番目に古いイギリスが1066年。2番目に古いのはデンマークで10世紀前半。フランスは1789年。アメリカは1776年。いかに日本が古い国かということがわかる。
しかし国古きが故に尊しとして言っているのではない。その古い歴史から生み出された文化こそ尊いものだし、誇りにし大切にしたいものだ。
2013年に日本を訪れた外国人が初めて1000万人を突破し、2014年には1340万人、2015年1月は2014年1月に比べて30%は増えているという。そして訪れた外国人の多くが日本の文化、日本人のホスピタリティに一様に賞賛の言葉を贈ってくれている。
日本は神の国なんだ。海にも山にも川にも、大きな樹にも岩にも、いたるところに神がいる。お寺にも行くし、神社にも行く。クリスマスは好きだし、いまイスラム教にも関心を持ち始めている。中国の道教、儒教の影響はもう身に染みついてしまっている。
なぜか。地震あり。津波あり。山崩れがあり、大雨がある。日本人は有史以来ありとあらゆる自然の驚異にさらされ翻弄されてきた。恐れおののき、身を寄せ合い、じっと耐えてきた。それでも大地を愛し、海を慕い、自然の懐に抱かれて安堵してきた。自然に宿る神々に、時には叱咤され、時には恵みを受け、教えを受けてきた。日本人ほど自然とのかかわりが深い民族はいないのではなかろうか。自然に宿る神々が日本人を育んだのだ。いま世界がそんな日本に、そして日本人に関心を寄せている。
深さ1万メートルの日本海溝の絶壁にへばりつく日本は危うい。またいつ何時、大地震が来るかもしれない。日の出を拝んで、夕日に祈る。
明日もまたつつがなき一日でありますように。さあ、眠りにつくとしよう。

「建国記念の日」と「建国記念日」

今日2月11日は「建国記念の日」である。
この日いちばん目に留まったニュースは、Yahoo!ニュース(産経新聞)の『建国の日「知っている」2割未満 米中では9割超 『自国誇り』は7割』という見出しの記事だ。
日本青年会議所(日本JC)が11日の建国記念の日を前に、「自国の建国・独立の日」に関する意識調査を行ったところ、中国の10割をトップに、カナダ、米国、フランス、ドイツ、そして最後のイタリアが8割弱を示す中、日本はどーんと下がって2割弱。「日本人の建国に対する意識の低さが鮮明に浮かび上がった。」とし、最後に日本JC国史会議議長の棟久裕文(むねひさ・ひろふみ)氏が「日本では自国を誇りに思いながら、建国は知らないという矛盾した状況になっている。グローバル社会に向け、義務教育段階から建国を含めた国史教育を充実させていく必要がある」と話している、と締めている。

むべなるかな。
この「建国記念の日」制定のいきさつからしてすったもんだで、戦前の「紀元節」が1948年(昭和23年)に廃止され、間髪を置かず紀元節復活の動きが1951年(昭和26年)頃から見られ、「建国記念日」制定に関する法案が提出されが、当時野党第1党の日本社会党が保守政党の反動的行為であるとして反対し、衆議院では可決されたものの、参議院では審議未了廃案となるなど、この法案はその後9回の提出と廃案を繰り返すも成立には至らなかった。結局、「建国記念日」の名称に「の」を挿入した「建国記念の日」として“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるようにして社会党も妥協、1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した、といういわくつきの祝祭日なのである。
つまりは、「日本が建国された日」ではなく、「日本が建国されたという事実を記念する日」として制定されたわけで、多くの国民は「建国記念の日」と「建国記念日」の区別がつかないし、制定のいきさつと目的が曖昧模糊としているわけだから、「建国記念の日」の受け止め方もいい加減なもので、多くの国民が骨休みの休日くらいにしか受け止めていないのも仕方ない。上のアンケート調査もいったい何を問うたものか定かでないというわけだ。
世界の主要国を見ても「建国・独立の日」は歴史的にも日が浅く、明確な根拠がある。一方、日本では「建国記念日」が設定に建国神話が用いられ、記紀中で神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年2月11日)であるから、今年で建国2675年ということになり、世界でも類を見ない長寿国ということになるが、これとても確たる根拠があるわけではないから、いっそう曖昧さに拍車がかかる。
さりとて、ほとんどの国民は日本を誇りにし、うまし国と思っているのは確かだろう。

ちょうどこの記事の下に、
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いうのが載っていて、まあ今日の「建国記念の日」も良しとするかという気持ちにあいなった。

クールジャパンと大和しうるわし

夜はもっぱら家庭教師という勤労老人にはテレビと無縁である。
それでもお正月とかたまの休みに見るテレビに一つの特徴を感じる。
学校か塾かと錯覚するような学習クイズ番組がやたら多いことと、グルメ番組そして日本礼賛番組が多いことである。
クイズ番組といえば思い出すのが『二十の扉』。
1947年(昭和22年)から1960年(昭和35年)まで毎週土曜日の夜7時30分から30分間放送されたクイズ番組の草分けで、大人から子供まで世代を問わずに誰もが楽しめることから国民的な知名度と人気を誇ったNHKラジオの看板番組である。
昨今のクイズ番組のようにもっぱら知識を試す内容ではなく、機知と想像力を試す趣向が強かったように思う。
そのNHKがいまやたら力を入れている番組が『cool Japan 発掘!かっこいいにっぽん』である。そのキャッチフレーズは「『COOL JAPAN』というキーワードが世界中で飛び交っている。ファッションやアニメ、ゲーム、料理など、私たちが当たり前と思ってきた日本の様々な文化が外国の人たちには格好いいモノとして受け入れられ、流行しているのだ。『COOL JAPAN 発掘!かっこいいニッポン』は外国人の感性をフルに活かして、クールな日本の文化を発掘して、その魅力と秘密を探ろうという番組です。」とある。
作家で演出家の鴻上尚史と、父親はアメリカ人、母親は日本人のタレント、リサ・ステッグマイヤーが司会をして、ご意見番1人、そして来日間もない各国の外国人8人くらいで構成され、例えば『文房具』というテーマを取り上げ、商品映像や商品が開発、発売されるまでのドキュメンタリーを交えながらディスカッションするというバラエティ番組である。
そう言えば昔、もう30年も前になるが、思い出されるのが講談社が外国人向けに出版した『DISCOVER JAPAN』という2分冊である。知日派の外国人がこの『COOL JAPAN』と全く同じようなテーマを取り上げて日本の文化を広く深く紹介していたが、そのリフレッシュ版のような気がする。受験生に読ませたのが懐かしい。
この『COOL JAPAN』が始まったのが2006年で、海外向けにも放送され、その影響もあってか、当初は主に秋葉原に代表されるようなマンガやアニメ、渋谷・原宿のファッションなど、ポップカルチャーを指していたこのクールジャパンは、今では食品・食材や伝統工芸、家電、神社仏閣のたたずまいなど広範囲にわたった日本文化の特徴を指すようになり、2010年には経済産業省が日本の文化産業の海外進出、人材育成などの促進を行うクール・ジャパン室を創設、その後文部科学省、外務省の2省も加わって、政府としてもクール・ジャパン現象を推進することに力を入れている。民放テレビでも花盛りになったわけだ。
東京オリンピック招致で一躍有名になった「お・も・て・な・し」は日本人の精神性をも表すものと理解され、クールジャパンをさらに裏打ちした。
来日した外国人のブログを見ていると、あまりの日本礼賛ぶりにこそばゆくなるが、クールジャパン、かっこいいニッポンだけを見ているのではない、日本のおもてなしの精神をしっかり受け止めてくれているのがうれしい。
岡倉天心が『The Book of Tea 』で著した「たかが茶されど茶」が、明治維新の欧化思想吹きすさぶ中、偏った国粋主義ではなく日本文化を掘り起し、外国にも広く日本文化の特徴を紹介したように、いまや「Cool Japan」は「戦後レジームからの脱却」を声高に叫ぶより早く戦後レジームから解放され、世界に羽ばたこうとしているのだ。
ともすれば慢心するのが人の常だし、国の常だ。日本礼賛、クールジャパンを自ら声高に発するのではなく、世界からそう受け止めてもらえることが大切だ。
日本武尊の辞世の歌「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるわし 」の『うるわし』は実にいい言葉だ。
うるわしの国、日本。なってほしいものだ。 

ベラスコ ―日本の秘密諜報員―

 
2015年平成27年未年、目の前にかかっているカレンダーをあらためて見直している。
戦後70年、長いような短いような、わが人生を振り返ってみても平々凡々だったのか波乱万丈だったのか、アルツハイマーではあるまいに、思い出のほとんどが霧の彼方へと消えて行っていることを自覚することがある。
参考のためにと、日本の人口構成の統計を調べてみたら、70歳以上、つまり1945年昭和20年以前に生まれた人が約2200万人、日本の総人口の約19%、2割弱が存命している。戦前生まれがまだこんなにいたのかと驚くと同時に、あの世界大戦とその後の歴史が他人事ではなく、自分たちがそこに生きてきたんだという実感と、この戦後70年という節目を考えてみる意味は大きいと思う。

そんな中、この正月に、あまり見たい番組もなく、そんな時よく見るNHKのオンデマンドで探していたら、30年ほど前に見た『NHK特集 私は日本のスパイだった ~秘密諜報員ベラスコ~』があった。びっくりした。こんなに古い番組が残っていることと、ちょうど戦後70年という節目にまた出くわした奇遇を思ったからだ。しかし、よく考えてみるとNHKもこの年だから紹介欄に掲げたんだろうから、ぼくが見つけ出したわけでもない。
それでも30年は古い。
1982年に放送され、第37回芸術祭大賞、第15回テレビ大賞優秀番組賞ほか多くの賞に輝いた作品だそうだが、当時どれだけの人がこれを見たのか、今このブログをお読みいただいている人の中にもそんな人がいたらうれしい思いだ。

番組内容もほとんど忘れていたが、いまあらためてこの番組を見たとき、今次世界大戦がいかに無謀で無防備だったのか、今もそうだが、当時も情報戦を制さずして勝てるわけがないわけで、開戦1年前にはすでに日本の暗号はすべて解読されていて、これが敗因の一つになったといわれている。
その解読文書がアメリカの公文書図書館に残っていて、日本の交信記録を紐解く中、日本の秘密諜報機関に「TO」という組織があり、その中心人物がユダヤ系スペイン人「ベラスコ」であることを突き止めたNHKのスタッフが、当時存命中のベラスコに接触、インタビューした記録がこの『ベラスコ』である。
アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコは日本では当時まだ知る人もほとんどなく、この放送で初めて明るみに出、実は世界ではよく知られている一流スパイで、ドイツナチス、とりわけヒトラーの信頼厚い人物であったことが知られることになるのである。
その後、作家の高橋五郎氏がこのベラスコに接触し、『超スパイ ベラスコ──今世紀最大の“生証人”が歴史の常識を覆す』で著した内容は、歴史事実を覆すことばかり。
ベルリンの『フューラー・バンカー(地下官邸)』で愛人エバ・ブラウンと自殺したことになっているヒトラーは実はそこを脱出していたこと、第一側近のマルティン・ボルマンも同じく同所で青酸カリを飲んで自殺と断じられたがこれも嘘であることを、その現場にいたという生き証人ベラスコが語っている。
さらに驚くことは、広島に落とされた原爆が実はナチス制原爆で、ナチスドイツはそのときすでに2発の原爆を保有し、それがドイツ国防軍元帥ロンメルの裏切りで連合国に渡ったものであることも語っている。
NHKの番組ではなるほどそこまでは踏み込んではいず、「TO」組織で日本に多くの連合国情報を伝えたが、日本がその情報を真剣には取り上げなかった悔しさを語るのみで終わっている。

伝えられる歴史というのはそういうもので、我々が学んだ歴史もよく「英雄史」だと言われた。表面に出た出来事の奥底にはそれとは裏腹な事実が存在し、実のところはそれが時代を変えているんだという認識も大切だ。
今話題の「イスラム国」問題もアラブの体制側、アラブ産油国の大富豪たちの安泰が西側にとっても有益だから、その側から問題を取り上げ、それが報道され、それこそが真実だと思わされてはいないか、なにも「イスラム国」に賛同するのではなく、パリで起こったテロに同情的になるのでもなく、表に出た「真実」のみを鵜呑みにする愚は避けたいものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=Z7PR8MVIaSo
https://www.youtube.com/watch?v=MxDPsuEkEzg
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc101.html
https://www.youtube.com/watch?v=WVsgsJzJWUA

街のサンドイッチマン ーカラオケ考ー

 

♪♪♪ 街のサンドイッチマン ♪♪♪

作詞:宮川哲夫、作曲:吉田 正、唄:鶴田浩二

ロイド眼鏡に 燕尾服(えんびふく)
泣いたら燕が 笑うだろ
涙出た時ゃ 空を見る
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは街の お道化者(どけもの)
とぼけ笑顔で 今日も行く

嘆きは誰でも 知っている
この世は悲哀の 海だもの
泣いちゃいけない 男だよ
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺(おい)らは街の お道化者
今日もプラカード 抱いてゆく

あかるい舗道に 肩を振り
笑ってゆこうよ 影法師
夢をなくすりゃ それまでよ
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは街の お道化者
胸にそよ風 抱いてゆく

2014年ももう間もなく幕を閉じようとしている。クリスマスも終わり、忘年会もめっきり減ったことだろう。
忘年会でもないが、生徒に誘われカラオケに行くことになった。
年に二三度行くか行かないかで、人に誘われてやっと行くほうで、よく勝手もわからない。持ち歌も大した数はなく古い歌ばかりだ。
そんな中、唯一心から歌える歌がこの『街のサンドイッチマン』である。
以前このブログでも書いた『誰か故郷を思わざる』と同じで、子供のころ、路上に石炭箱を並べて作ったにわかステージで、近所のおばちゃんやおっちゃんが歌う『町内歌謡大会』で初めて聞いた歌だ。
サンドイッチマンに扮した戦闘帽のおっちゃんが、真っ白な顔の両頬にまーるい日の丸を書き、プラカードをふりふり歌っていたその姿と歌いぶりが何とも印象深かった。忘れられない。
ドーナツ盤のレコードを買い、テープレコーダーに入れ、カセットテープに入れ、ウォークマンに入れ、今ではiphoneにまで入れている。
今こうして歌詞を読んでいても胸がジーンとなってくる。歌っている鶴田浩二がまたいい。特攻隊崩れの哀愁漂う歌い振りが心にしみる。
ぼくたちの時代はこんな時代だったんだ。
敗戦から立ち上がり、来年2015年で戦後70年、ずいぶん変わったものだ。この変わりようはぼくたちにしかわからない。
だからぼくの歌う歌は生徒たちにはわからないだろう。聞いてはくれていて、歌い終わると拍手はしてくれるが、お愛想だよおあいそ、優しいお愛想だ。
おなじで、一緒に行った生徒たちの歌はまるで分らない。異邦人の歌かなと思ってしまうほどだ。ちゃかちゃかちゃかとまるで早口言葉のような歌を歌う生徒もいる。なんじゃこれは、という感じだ。
曲探しのタブレットが右に渡り、左に渡り、歌っている人の歌にはまるで関心がない。しかし歌い終わると必ず拍手し、時にはほめ言葉を投げかける。
しかし不思議なことに、ぼくがこの『街のサンドイッチマン』を歌いだすと皆の動きが止まり、じっと耳を傾けてくれる気配を感じる。三番の「あかるい歩道に 肩を振り・・・」と歌いだすと手拍子をし、ぼくが肩を左右に振るのに合わせて皆も肩を左右に振っている。うれしい。鼻の奥がジーンとしてきて、涙が出そうになる。涙を抑えて歌い終わると、みんなが不思議そうにぼくの顔をじっとみている。心が通い合った瞬間だ。

ぼくはこの歌だけはのびのびと歌える。本当に街中をゆくサンドイッチマンになった気分だ。俺らは街のお道化者、胸にそよ風抱いてゆく人生の道化者だという感じだ。
戦闘帽のおっちゃんがのりうつったのか、鶴田浩二がのりうつったのか、自分が歌っている気がしない。大げさで叱られるかもしれないが、生きた時代がのりうつったような気がする。
だからみんなカラオケなんだ。あの四畳半か六畳位の暗い空間は、人が集っていても孤独であり、孤独であるがゆえに歌に浸り、それぞれがしょい込んだ喜怒哀楽をるつぼに溶かし、お互いの絆を確かめ合い、また新たな活力を生み出すブラックボックスなんだ。