2014年9月

 
☆★☆ 日本の異常気象 ☆★☆

今年の9月は長い。どうしてなんかなと考えてみたんだが、思い当たるのは気温だ。
確か去年は、8月の下旬から9月の第1週当たりにかけてやっと秋かなという気配がしたんだが、それもつかの間、第2週当たりから連日30度を超す気温がぶり返し、9月下旬辺りまで続いたような気がする。
ところが今年は8月も不順な天候が続き、気温35度を超す猛暑日が0という地域も多かったし、日照時間は例年の半分というところも多かった。
9月に入ると気温もグーンと下がり、どうせまた暑さがぶり返すんだろうと思っていたらそれもなく、比較的涼しい日が続き、夏蒲団では寒くてという日もあった。
だから、去年の記憶が頭に残っていて、こんなに涼しい日が続くのはもう10月なんだと錯覚し、カレンダーを見るたびに、あれっまだ9月なんだと思うことが何度かあって、そのせいで今年の9月は長いと感じているのだろう。

しかし近年、どうも毎年毎年の気候が一定しなくて、記録破りのとか、観測史上稀にみるといったお天気情報が多いような気がする。
今年なんかは、ゲリラ豪雨とか、局地的大雨が頻発し、大災害に見舞われたところも多く、超ド級の台風も接近したし、まだまだ予断を許さない。
そのせいもいあってか、野菜の値段がべらぼうに高く、高級果物も色なしといった状況だ。
日照時間がこれほど短いとお米の出来も悪いだろうし、野菜の値段ももう高止まりで一向に下がる気配はない。
この分では、10月に予定されている消費税10%の決定も難しいところだが、日本の健全財政を期待する外圧も高く、不況からの脱出が遅れても消費税増税は避けられそうもない。

昔のような、松の根をかじって飢えを凌ぐというような飢饉はないかもしれないが、こう天候不順が続くようでは「平成の大飢饉」もまんざら杞憂でないかもしれないと思ってしまう。
涼しくて夜もよく眠れ、いっとき心配していた睡眠障害も持ち直したのはいいんだが、この心地よさと裏腹な心配事が沸々と湧き起ってくるのも今年の9月の印象だ。

夏休みの宿題

夏休みもお盆を過ぎると、また学校が始まること、とりわけ、出された宿題のことが気になることだろう。
「気になることだろう。」と他人事のように言うのも、自分の小学校、中学校そして高校生のころ、宿題は出されたんだろうがそれがどんなものだったのか、この歳になると、もうまるで思い出せないからだ。
ぼくのように長年教育に携わってきた者、この年頃のお子さんをお持ちのお母さん、お父さん以外の人にとっては、「宿題」という言葉を投げかけられなければ、それほど関心のある問題ではない。
でも日本人である限り、この宿題に取り組まない者はなかったはずである。

さてこの宿題、果たしてどれだけ意味のあることなのか、真に問われないまま、ただ惰性的に、親も教師も、社会とは言わないまでも、およそ教育に関係のある者まで、見過ごしてきているのが現状だし、それでいいのだろうかと問い直したい。
結論から言えば、ぼくは宿題無用論者だし、むしろ有害論者だといっていいい。
それでも毎年毎年、家庭教師をしているぼくは、特に夏休みに出される学校の宿題では生徒と悪戦苦闘、無用論者、有害論者の信念を投げ捨てて、何とかその宿題の提出期限に間に合うよう、生徒を励まし、奮闘努力しているのである。
夏休みの「休み」にいったい何の意味があるんだろうとつくづく思う。
学校によっても、また地域によっても、はたまた受験その他の条件によっても、宿題の事情は様々なんだろうが、一般的に言って、これ、つまり「宿題」も子供虐待、児童虐待の何物でもないケースが多いんじゃないだろうか。ぼくの最近見てきた生徒は、多く、そういうケースに当てはまる。
勉強のできる子にとっては邪魔だし、できない子にとっては地獄だ。どれだけの生徒がこの宿題に有意義を見出しているだろうか。

思うに、この「宿題」も日本独特なもので、富国強兵、国民皆教育のもと、明治維新から引き継がれた国家目標を達成すべく教育現場に持ち込まれたもので、個性よりも集団、自由よりも平等を重んじた産物なのだろう。
今の日本を見るとき、日本の教育制度は決して間違ったものでなかったこと、むしろ世界に誇れる様々な事象を生み出したことは確かだ。
だが、今は違う。これからの日本が歩むべき道は違う。
教育水準の高さは世界に冠たるものはあっても、その内実は制度疲労を起こし、理想高き明治の教育理念に胡坐をかいていることおびただしい。

ここに取り上げた「宿題」は、単に宿題されど宿題程度の話題かもしれないが、教育の現状を憂えるぼくにとっては、皆にもう一度考えてほしい問題である。
白雲がもくもくと湧き上がる空のもと、海に山に思いっきり若さをぶつけ、数学のこと、英語のことはひと時忘れ、英気を養う時こそ、夏休みなのだ。
それでも勉強したいヤツは勉強すればいいし、ボーっとしたいヤツは1カ月間ボーっとすればいい。
誰からも指図されず、自分の過ごしたいように過ごすからこそ、夏休みには意義がある。

家庭教師が見た一例

ある年の夏、A君の家庭教師を頼まれた。
大阪でも指折りの進学校で、中高一貫教育が基本であるが高校からも入学でき、A君は高校から入った。
なんでも、高校からは130人入学し、1年後には30人が脱落、A君はかろうじて退学は免れたが、残った100人の中で成績が最下位であるという。
夏休みの宿題がどっさり出され、その課題テスト次第で退学させられるのか、退学せざるを得なくなるのか、ということで家庭教師を依頼されたわけだ。
この高校、偏差値が70を越えなければ入れないというから、中学では相当頑張ったのであろう。おそらくトップクラスにいたはずだ。
ところが最初見た限りではその片鱗もなく、どの科目もどの科目もひどいもの。数学も英語も、物理も化学もまるで基礎ができていない。
理由を聞くと、高校に入ってすぐは勉強が手に着かず、そうこうしているうちに瞬くうちに学校の勉強についていけなくなったという。何度も立て直しを図ったけれどももうどうにも追っつかない。半ばあきらめて今に至っているとのこと。
おそらく脱落した30人も同じ経緯を辿ったに違いない。
そして、今回出された夏休みの宿題が、これがまたどの科目も過去に出された入試問題で難問揃い。A君に解けるわけがない。しかも大量にだ。
一題一題を解くためにすべて基礎から掘り起こさねば理解できないし、解けない内容だ。
こんな宿題をA君のような生徒に出して何の意味があるんだろうか。おそらく、もうこの学校から出ていきなさいよ、という魂胆ありありとしか勘繰らざるを得ない内容である。
初めは、それでも、家庭教師が付いたことだし何とかしようとA君も頑張ってはいたし、こちらも何とかしてやろうと努力したんだが、1週間が経ち、2週間が経つうち、A君の勉強態度に投げやりな姿勢が目立つようになり、こちらに対する態度や言葉づかいにも刺々しさが目立ち始めた。
それだけではない。しばらくはこちらがどう働きかけても虚ろに一点を見つめているだけで何の反応もなく、突然ふっと我に返ったようにノートを見て何か書こうとするが先に進まない。変に言葉をかけてもとじっと見守っていると、突然「ここがわからん!」とこちらを睨みつけて怒鳴るように言う。「切れる」という言葉ぴったしの表情だ。恐怖さえ感じる。先ほどあれだけ丁寧に説明したことをまるで覚えていない。
ここまで来ると、もう単に勉強を教えるというだけでは済む問題ではない。A君の言動や態度から判断していわゆる「パーソナリティ障害」が疑われる域に達している。
A君のお母さんに事情の一部始終を説明して、これ以上の指導は困難なこと、勉強のことよりも精神的なケアの必要性などを申し上げて家庭教師を辞退させていただくことにした。

A君だけではない。人間形成において勉学、中でも学校教育の歪みから様々な障害を生み出しているケースが増大しているのは確かだ。
最近多発している若年者の痛ましい事件もこうした歪みが原因の一部を担っていることは十分考えられる。
多くの生徒や学生は様々な困難を克服しすり抜けながら社会生活に適応していくわけだが、中には挫折して心身に傷を負い、一生涯その傷を癒すことができない者もいる。
そんな時、学校の果たす役割は重要であるが、果たして今の学校は人間形成の場としてその役割を果たしているであろうか、大いに疑問である。
特に気になるのは、将来大学進学を目指すのに、6年一貫教育を標榜する有名校が有利として中学受験を目指す向きが多いが、大人が考える以上に子供たちは真剣で、重大事として受験に臨んでいるのであって、そこで挫折した傷は大きい。そういう生徒たちもたくさん見てきた。
通ればもうけもの、落ちてもともと、といった安易な気持ちで受験する子供たちは決していないことを銘記すべきである。

15歳の志願兵

 
☆★☆ 15歳の志願兵 ☆★☆ (なぜかNHKのアーカイブでも見ることができません)

来年2015年で戦後70年を迎える。
毎年8月が近づくと第二次世界大戦のこと、日本の参戦と敗戦、広島と長崎の原爆投下のこと等が取り上げられ、マスメディアでも連日関連番組で賑わう。
上にあげた『15歳の志願兵』は、NHK総合テレビのNHKスペシャル枠で、2010年8月15日に放送されたテレビドラマの特別番組である。
第65回文化庁芸術祭優秀賞(テレビ部門・ドラマの部)、第48回ギャラクシー賞選奨受賞。視聴率7.2%というこのドラマは、今なぜかNHKオンデマンドでも見られない。

70年が長いのか短いのか。韓国は「慰安婦問題」でますます反日キャンペーンを強め、中国は中国で反中国包囲網の中、我が無二の同志を得たりと韓国を抱き込もうと必死だし、第二次世界大戦の記憶は薄まるどころか、蒸し返しに躍起になっている。

そんな中、先日、幻の15歳兵の生き残りの橋上さん(仮名)にいろいろお話を聞くことができた。

戦前の日本は徴兵制を敷いていて、男子20歳になれば徴兵検査を受けねばならず、徴兵検査の結果、甲、乙、丙、丁、戊の5段階に分けられて、甲と乙は合格、戦況とともにそれが丙にまで合格適用され、必要に応じていわゆる「赤紙」が来て召集となった。これは陸軍に限ってのことで、海軍は志願兵が主流のため、召集は限定的であった。
1941年に太平洋戦争が起こると、年を重ねるごとに戦況は厳しくなり、兵役義務年齢もそれまで20歳であったものを1943年には19歳以上、1944年には17歳以上に引き下げられた。
それ以外にも「志願兵」という仕組みがあり、17歳以上であれば軍隊に志願できたわけであるが、その年齢も1944年には14歳以上にまで引き下げられ、男子14歳になれば17歳の徴兵年齢を待たずとも、学校や周りの者たちが「志願」することを半ば強制したり、勧めたりして、実質戦争に参加せざるを得ない仕組みを作り上げた。世に言う「15歳の志願兵」である。

橋上さんは昭和2年(1927年)生まれ。1942年に15歳で陸軍の少年飛行学校に入隊し、16歳で実戦配備され、副操縦士として1943年の重慶爆撃にも参加したという。当時は航続距離で中国奥地の重慶まで護衛できる戦闘機がなく、爆撃機単独で乗り込んだわけだから日本軍爆撃機にも相当な被害が出た。橋上さんも副操縦士が乗る後部座席で後頭部に被弾するも、貫通銃創でなくて命拾い、血みどろで帰還したという。
少年飛行学校の入校資格者の最年少は、中等学校2年修了者か高等小学校卒業生なので14歳か15歳、今の中学3年生である。若者というよりは、「子ども」といってもいいくらい。それが1年かそこらで実戦配置につき、敵の銃弾を受けるのである。
橋上さんはその後各地を転戦し、終戦間際には鹿屋航空基地に配属され、その戦歴から神風特攻隊の護衛、聞こえはいいが監視役、つまり、途中で脱落する特攻機はいないかを監視する役目に着いたそうだ。その時が一番つらかい時期だったと言う。
人は誰もがいい役割についたと言うが、自分にとって、これほど腹立たしく、侮辱的な言葉はないと真顔で言う。
特攻機との別れ際に別れの手を振る隊員の顔かたちがはっきり見え、自分も何度そのまま特攻機とともに突っ込んでいきたいと思ったことか。次はどうぞ自分に特攻機乗りの順番が回ってくるようにと祈ったそうだ。それが当時の少年飛行兵達の偽らざる気持ちで、今の自分も含め打算にまみれた人間には到底理解できないだろうと。
だから、いっときは新聞社や雑誌社からインタビューの申し込みが数多くあったが、すべて断ったという。「お前らには俺の気持ちが分かるか!」という心境だったという。
橋上さんは、87歳になった今も生き残ったがために苦しみ、そこから抜け出られないという。死ぬまで我慢するしかないと深く自分に言い聞かせているという。

集団的自衛権と憲法解釈

戦後70年、もう70年もたってしまったんだ、日本は歴史的転換点を迎えている。
日本国政府はこれまで憲法第9条について、「自衛のための必要最小限度の武力の行使は認められている」ものと解釈し、日本の自衛権については、「個別的自衛権は行使できるが、集団的自衛権は憲法の容認する自衛権の限界を超える」との見解を示してきた。
個別的自衛権の行使も、1954年の自衛隊発足に当たり認めたもので、日本国憲法が発布された1947年(昭和22年)5月3日以来認めてこなかったものである。
そもそも日本国憲法が時代を超越したと言おうか、世界の現実を超越した非常に理念性の高い憲法で、70年間一言一句も変えられることなく保持されてきたという、世界では類を見ない、これはこれで「世界文化遺産」に登録されてもいいような理想的憲法なのである。
世界主要国の戦後の改正回数を見てもわかるが、アメリカが6回、イタリアは15回、フランスが27回、ドイツに至っては58回も憲法改正を行なっているように、世界の憲法は時代時代に順応できる態勢になっているが、日本はそうではない。法体系における憲法の次元が日本と外国とでは異なるように思える。
この違いには、日本と諸外国の法概念と言おうか法観念の根本的な違いがあって生じるもので、これはこれで考察するのも面白いが、いまはさて置く。
この理念性の高い日本国憲法のもと、理念よりも時には理念とはかけ離れた世界の現実に対処して行くには「憲法の拡大解釈」に寄らざるを得ないのが、時の政府であり、ひいては日本国民なのである。その象徴的なのが「憲法第9条」の解釈ということになろう。
この憲法第9条はどう見ても「日本は戦争をしません。だから軍隊を持ちません。」という内容である。理屈を捏ねまわしてあだこうだとはいうが、中学生や高校生ならこう解釈するだろうし、その解釈が一番まっとうな解釈である。
しかしそう解釈したのでは国が立ち行かぬから、ああだこうだと理屈を捏ねまわし、いまや「集団的自衛権」行使容認は現行憲法上許されるか許されないか国論を二分している。
個別的自衛権を守るために自衛隊という軍隊を持った時から憲法第9条からは逸脱したのであり、今回の集団的自衛権行使の容認もその延長上と言おうか必然的に起こりうることであって、現行憲法を改正しない限りその矛盾性は解消しない。
このことは世界にも類を見ない理想的憲法を持った日本、および日本国民の宿命であり、理想と現実をどう調和させていくのか、あと30年も経てば第二次世界大戦100周年という節目になるのだが、その時日本はいかなる国になっているのか、なっていなければならないのか、この「集団的自衛権」問題を皆で真剣に考えていきたいものである。
最後にぼくの立場は「集団的自衛権」行使容認には賛成である。

124万人 ―車社会からの脱却―

冒頭に掲げた124万人は世界の交通事故死者数である。ここで言う交通事故とは車による事故のことで、飛行機や列車の事故は含まない。
ちなみにこの124万人とはどの程度の数なのか相対的に見ておくとよくわかる。
一昨日6月28日は世界第一次世界大戦が勃発した日で、今年でちょうど100年になるが、その死者数はおよそ2600万人。この数はそれまでの戦争や内乱の犠牲者の総数を上回るとてつもない数で、次に世界大戦が起こったら地球上の人類が絶滅すると思われたくらいに衝撃を与えた数なのである。それにもかかわらず50年もたたないうちに起った第二次世界大戦は第一次世界大戦の2倍を超えるおよそ5400万人の犠牲者が出た。
この二つの数は歴史上突出した数で、124万人に近い数で言えば、2013年の日本の出生数が102万人、死亡者数が126万人、中国内戦(1946~49)120万人、朝鮮戦争(1950~53)125万人、ベトナム戦争(1955~75)は少し多くて209万人。
こう見てくると世界の交通事故者数124万人は真剣に考えてみなければならない数であることがよくわかる。

20世紀は様々な革新がもたらされ、人類に多くの幸いを与えたが、逆に多くの不幸も生み出した。
車もそうである。
蒸気機関車から始まった鉄道、プロペラ機からジェット機など20世紀の交通手段はどれも目を見張る発展を遂げたが、中でも最も身近で便利な車は世界のいたるところで利用され、先進諸国は言うまでもなく、発展途上国でも車なしでは生活できないまでに普及した。
2013年の世界の車生産台数は8700万台というから、車の保有台数になるとおよそその10倍、8億台というから、おおざっぱにいっても世界の10人に一人は車を持っているわけだ。

車は鉄道や飛行機とは違いどこにでも移動でき、人と一体なったなったような移動手段でこれほど便利なものはない。
しかし、身近で便利なゆえに、ちょっとした不注意やとんでもない使い方をされたら、これほど恐ろしい凶器はない。
軽い車でおよそ1トン。時速たとえ10kmで人に当たったとしても、じゅうぶん人を死に至らしめる恐ろしい存在なのである。
それが学童の列に突っ込んだり、繁華街で人をなぎ倒す事件が最近相次いでいるが、たまったものでない。
中国の天安門前で起こった暴走車の映像が公開されたのを見たが、あれはもう悪魔の沙汰だ。
しかし本当に怖いのは、そんな異常な事故ではなく、どんなに正常な人であっても一瞬にして人の命を奪ってしまう車の恐ろしさである。
冒頭に掲げてた124万人の犠牲者はその80%以上が「通常の交通事故」の犠牲者なのである。

20世紀の車社会は、余りにも車中心に発展しすぎた。
以前にもこのブログで取り上げた(未来都市 ― ヒントは「道」―)が、
21世は、もう手放すことができなくなった車を生活の中でどう位置付けるか、皆で真剣に考えていかねばならない。

大胆な提言ではあるが、少なくとも1平方キロメートルの居住区には絶対に車を入れない、そんな地域ブロックをたくさん作り、それでいて車もうまく利用できる、おおざっぱではあるが知恵を出せばそんな都市作りも考えられるのではないだろうか。
日本では幸いなことに、ピーク時17000人であった交通事故者数が今や5000人を割っている。これはこれでいいことだが、問題なのは車中心の道作りがコミュニティー社会を分断し、それからいろいろな現代的諸問題が発生しているということ、それをいかに解決し、昔のように豊かな人と人の交流社会を作り出すかということである。

中古のサッカーシューズ

明日6月15日午前10時、2014年ブラジルワールドカップ、日本対コートジボワール戦がいよいよキックオフである。
できることなら日本よ、勝ってほしい。全力で応援するつもりだ。

昨日、家庭教師先の中学2年生とそのことを話しているうちに、たまたまどちらもが観たテレビ番組が話題になった。
先日9日に放映された番組で、岐阜のNPO法人「ぎふ・コートジボワール」が2008年以来続けている「コートジボワールの子に運動靴を贈ろう」運動が、今回偶然にも両国が対戦することになって取り上げられた番組である。
岐阜市の生花店経営、NPO代表の杉山利夫さんと同市内に住むコートジボワール人、カク・ブル・ジョージさんの友情から生まれたこの活動は輪を広げ、今では全国から届けられた中古の運動靴は3万足にも上るという。
この4月にはさらに4トントラック2台分、運動靴とスパイクシューズに分類し、汚れを取り除いて船便で送った約1万足を、カクさんが現地を訪れ、子供たちに分配する様子がテレビで流された。
普段は草履ばきがせいぜいの子供たちは大喜び。
一人の少年が貰ったサッカーシューズの後ろに「棟近」という名前が書いてある。その少年はカクさんにそのわけを聞き、すかさず「ムネチカくん、ありがとう。大切に使います。」とテレビ画面に感謝の言葉をする。

中学2年生も感動したという。
話題は広がり、今ちょうど世界地理を勉強しているというので、先生(ぼく)が中学生の時は世界の人口は約30億人、50年後の今2013年には72億人に達していて、そのうちの10億人は慢性の飢餓状態にあるということ、まともなな飲み水もなければ、学校はおろか、学用品もない、日本では考えられないほどの極貧状態の人達を合わせると世界人口の半分にもなるというと、中学2年生、うっすらと涙を浮かべている。

思うに、今教育問題がしばしば取り上げられ、教育改革がどうの、学力低下はゆゆしき問題だ、いじめの問題は学校が悪い親が悪い、兎も角かまびすしいこと限りないが、どれもこれも視点が小さく小賢しい。
大切なことは教育の内容で、子供たちにもっと大きな視点を持てるように、生きていくうえで大切なことは本当は何なのか、世界が平和であるためには極貧状態にある40億人の人たちとどう向き合っていかなければならないのか、一言では言い表せないが、もっともっと違った視点から考え直さなければ、「人を殺せば死刑になれる」と考える子供、いや大人までもますます増えるのではないだろうか。
つい最近も、日本の子供たちは世界の子供たちと比べると、際立って自信を無くしている、しかし際立って社会のために尽くしたいと考えているといった調査結果を目にした記憶があるが、こんな子供たちをどうか大切に育てていきたいものだ。

・NPO法人ぎふ・コートジボワール https://www.facebook.com/pages/NPO%E6%B3%95%E4%BA%BA%E3%81%8E%E3%81%B5%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%B8%E3%83%9C%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB/186337734792191
・コートジボワール日誌(在コートジボワール大使・岡村善文氏のブログ) http://blog.goo.ne.jp/zoge1/e/4e6bc1a4ac7289403b8cf8a36c1a6c0d

花の色は

 
「花の色は」とくれば、
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
という小野小町の歌がまず思い出される。
しかし今回取り上げたいのはこの歌のことではなく、まさしく花の色の美しさとその発色の仕組みそして不思議のことである。

この20世紀と21世紀は歴史上科学がもっとも発達した世紀で、神羅万象に科学の目を向け、驚くべき発見とその応用が極限にと思えるほど発展した時代である。
晴天に恵まれた今日、近くの公園に出かけた。
バラが満開の時期なのでそれを鑑賞したい思いからだ。
バラといえばイメージするのは深紅の薫り高いバラだが、目に飛び込んでくるバラはもちろん深紅あり、白あり、赤があり、ピンクあり、黄色あり、それも濃淡さまざま、混ざり合ったもの、そのバリエーションには驚かされるばかりだ。
いったいこの色はどのようにして生み出されるのだろう。ふとそういう疑問が生じた。
こんな疑問を抱かれた方もきっといるだろうし、昔にもいたはずだ。
早速家に帰ってパソコンを開いてみるとちゃんと答えが載っていた。
その答えは100%とはいかないまでももうかなり解明されているから驚きだ。
http://www.naro.affrc.go.jp/flower/kiso/color_mechanism/
ここには花のさまざまな色の発色機構が詳しく説明されている。
花を発色させる主な色素は、フラボノイド・カロテノイド・ベタレイン・クロロフィルのグループであり、その総数は数千にもなるという。
さらに人は品種改良や遺伝子組み換え技術またはDNAを変質させる突然変異の利用などを通して人工的に花の色を変えることさえできるという。

そもそも植物が色とりどりの花を咲かせるのは種族保存のためであり、虫や鳥に授粉や種の拡散を手助けしてもらうために精一杯におめかしをしているのだ。
そのおめかしに人は心奪われ、花に酔い、花を贈り、花を手向ける。なんと最近の研究によると、ネアンデルタール人ですら花を死者に手向けていた形跡があるという。
特に日本人と花の結びつきは深い。
万葉集4500首のうち1500首は花や植物の歌であり、19世紀半ばに日本にやってきたスコットランドの植物学者ロバート・フォーチュンは「日本人の国民性の著しい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであるということだ。・・・。もしも花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人々は、イギリスの同じ階層の人々と比べると、ずっと優って見える」と感動の目で日本人を見た。

今日、この晴れた日のバラ鑑賞が図らずも花の発色のメカニズムを知ることとなり、現代の科学発展の素晴らしさと、良き国に生まれた幸せを感じることとなった。
と最後は締めくくりたいんだが、小町さんの歌が妙に引っかかるなあ。

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山陰は明るかった

 
ゴールデンウイーク中の4日間、久々に連休が取れたので山陰地方を巡ることにした。

噂の竹田城、天空の城として今人気のスポットだが、ちょっとミーハー気のあるぼくは先ずここを訪ねたいと思っていたことと、長年一度は行ってみたいと思っていた萩が結びついての山陰旅行と相成ったわけだ。
途中にも、兵庫の生野銀山、松江から出雲大社、世界遺産石見銀山、石見の柿本人麻呂事績、まだ訪れたことのない場所がいっぱいあって、できたら訪れてみたいとの胸ふくらませての旅立ちだ。
旅程、車でおよそ600km、往復で1200kmだから、4っ日間3泊で行くには少し無理があるかもしれない。
いつものことながら、高速道は利用したくない。ただひたすらに目的地の向かって走るだけで、途中の景色を見るゆとりもなければ、寄り道してみる面白さもないから嫌だ。車での旅は一般道に限る。

とりあえず、生野銀山と竹田城はそれほど離れていないので一日目はここを目標にと出発した。
このあたりには友人の家もあったし、西国33か所めぐりや城崎温泉なんかにも何度か行ったこともあったので知らない場所ではなかったが、竹田城のことは今回初めて知った。
2、3年前だったか、NHKの大河ドラマ『江』で有名になった同じ山城「小谷城」にも行ったことがあるが、ただしんどいだけであまり印象にも残らなかった記憶がある。
竹田城は違った。噂に違わず、天守閣や建物の遺構こそなかったが、累々と積み重ねられた石垣はしっかり残り、「東洋のマチュピチュ」とはちょっと言い過ぎだが、確かに天空の城の威風は感じられた。

国道9号線を辿り、いよいよ日本海が見え始める頃になって驚いたのは、五月晴れという天候の性もあるが、実に明るい風景が目に飛び込んでくることだった。
真っ青な海と打ち寄せる真っ白な荒波はまさしく日本海だ。
それに道がいい。9号線もそうだが、建設中の山陰自動車道が一般道と同じように利用でき、いわゆる高速自動車道の不便さがないし、実に快適だ。全線開通していなくてプツンプツンと好きなところで出れるのがいい。有料区間も260円とか450円とか数か所で払うだけで、ほとんどがまだ無料区間になっている。
5月5日こどもの日に合わせていたるところで催し物が開催され、出雲では古式豊かな出雲舞が披露されていた。
人があふれ、踊り、食べ、みんな実に陽気だ。「山陰」とは裏腹な景色と光景が展開されているのには驚かされた。

今から50年以上も昔、国鉄の周遊券で山陰線、山陽線を辿ったことがあるが、その山陰線が並走しているところもある。しかし列車にはとうとう出会うことはなかった。
時代が変わったんだ。
浜田辺りで列車の中から見えた日本海の夕日はいまだに残像として残っているが、今はセンチメンタルのかけらもない。あたりの明るい光景があまりにも強烈だからだ。

寄り道しすぎて時間がなくなった。最終目標の萩を目指すことにした。

萩は期待通り落ち着いた街で、町中いたるところに歴史が刻まれていた。
萩城の一角は石垣の中に民家が散在し、今流行りの時代街にもなっていてたくさんの焼き物の店がある。どれも凝った店造りだ。
萩城跡の指月公園に入ると琴の音が流れてきた。藤の花がたわわに垂れ下がったその下で何面もの琴が演奏されていたのだ。
その奥に「花江茶亭」があった。13代藩主・毛利敬親が安政5年(1858)旧三の丸にあった藩主別邸花江御殿内に増築した茶室で、明治期に指月公園内に移築され、幕末期、敬親は家臣たちと茶事に託して時勢を論じ、国事を画策したといわれている、まさに文明開化期の茶亭だ。
今日はその茶亭で表千家の大茶会が催されていて、迷わずお点前頂くことになり、しばし明治に思いを馳せる機会を得た。

もう一つのお目当ては「松下村塾」である。
その佇まいの小ささにまずびっくり。8畳と10畳の二部屋しかない。この小さな塾から、高杉晋作をはじめ、伊藤博文、山縣有朋など明治維新で新政府に関わる人間をあれほど多く輩出したとはとても思えないほどだ。
藩校明倫館とは違い、武士、町人の身分を分け隔てなく受け入れた自由と革新の気風がこの小さな掘立小屋に凝縮されていたことを想い、思わず目頭が熱くなった。

もうこれで十分だ。
津和野に向かう田園風景は実に心癒され、今回思い立った旅路が歴史と明るい未来をつなぐ自分なりの納得のいく旅路だったことに満足した。

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