ベラスコ ―日本の秘密諜報員―

 
2015年平成27年未年、目の前にかかっているカレンダーをあらためて見直している。
戦後70年、長いような短いような、わが人生を振り返ってみても平々凡々だったのか波乱万丈だったのか、アルツハイマーではあるまいに、思い出のほとんどが霧の彼方へと消えて行っていることを自覚することがある。
参考のためにと、日本の人口構成の統計を調べてみたら、70歳以上、つまり1945年昭和20年以前に生まれた人が約2200万人、日本の総人口の約19%、2割弱が存命している。戦前生まれがまだこんなにいたのかと驚くと同時に、あの世界大戦とその後の歴史が他人事ではなく、自分たちがそこに生きてきたんだという実感と、この戦後70年という節目を考えてみる意味は大きいと思う。

そんな中、この正月に、あまり見たい番組もなく、そんな時よく見るNHKのオンデマンドで探していたら、30年ほど前に見た『NHK特集 私は日本のスパイだった ~秘密諜報員ベラスコ~』があった。びっくりした。こんなに古い番組が残っていることと、ちょうど戦後70年という節目にまた出くわした奇遇を思ったからだ。しかし、よく考えてみるとNHKもこの年だから紹介欄に掲げたんだろうから、ぼくが見つけ出したわけでもない。
それでも30年は古い。
1982年に放送され、第37回芸術祭大賞、第15回テレビ大賞優秀番組賞ほか多くの賞に輝いた作品だそうだが、当時どれだけの人がこれを見たのか、今このブログをお読みいただいている人の中にもそんな人がいたらうれしい思いだ。

番組内容もほとんど忘れていたが、いまあらためてこの番組を見たとき、今次世界大戦がいかに無謀で無防備だったのか、今もそうだが、当時も情報戦を制さずして勝てるわけがないわけで、開戦1年前にはすでに日本の暗号はすべて解読されていて、これが敗因の一つになったといわれている。
その解読文書がアメリカの公文書図書館に残っていて、日本の交信記録を紐解く中、日本の秘密諜報機関に「TO」という組織があり、その中心人物がユダヤ系スペイン人「ベラスコ」であることを突き止めたNHKのスタッフが、当時存命中のベラスコに接触、インタビューした記録がこの『ベラスコ』である。
アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコは日本では当時まだ知る人もほとんどなく、この放送で初めて明るみに出、実は世界ではよく知られている一流スパイで、ドイツナチス、とりわけヒトラーの信頼厚い人物であったことが知られることになるのである。
その後、作家の高橋五郎氏がこのベラスコに接触し、『超スパイ ベラスコ──今世紀最大の“生証人”が歴史の常識を覆す』で著した内容は、歴史事実を覆すことばかり。
ベルリンの『フューラー・バンカー(地下官邸)』で愛人エバ・ブラウンと自殺したことになっているヒトラーは実はそこを脱出していたこと、第一側近のマルティン・ボルマンも同じく同所で青酸カリを飲んで自殺と断じられたがこれも嘘であることを、その現場にいたという生き証人ベラスコが語っている。
さらに驚くことは、広島に落とされた原爆が実はナチス制原爆で、ナチスドイツはそのときすでに2発の原爆を保有し、それがドイツ国防軍元帥ロンメルの裏切りで連合国に渡ったものであることも語っている。
NHKの番組ではなるほどそこまでは踏み込んではいず、「TO」組織で日本に多くの連合国情報を伝えたが、日本がその情報を真剣には取り上げなかった悔しさを語るのみで終わっている。

伝えられる歴史というのはそういうもので、我々が学んだ歴史もよく「英雄史」だと言われた。表面に出た出来事の奥底にはそれとは裏腹な事実が存在し、実のところはそれが時代を変えているんだという認識も大切だ。
今話題の「イスラム国」問題もアラブの体制側、アラブ産油国の大富豪たちの安泰が西側にとっても有益だから、その側から問題を取り上げ、それが報道され、それこそが真実だと思わされてはいないか、なにも「イスラム国」に賛同するのではなく、パリで起こったテロに同情的になるのでもなく、表に出た「真実」のみを鵜呑みにする愚は避けたいものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=Z7PR8MVIaSo
https://www.youtube.com/watch?v=MxDPsuEkEzg
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc101.html
https://www.youtube.com/watch?v=WVsgsJzJWUA

街のサンドイッチマン ーカラオケ考ー

 

♪♪♪ 街のサンドイッチマン ♪♪♪

作詞:宮川哲夫、作曲:吉田 正、唄:鶴田浩二

ロイド眼鏡に 燕尾服(えんびふく)
泣いたら燕が 笑うだろ
涙出た時ゃ 空を見る
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは街の お道化者(どけもの)
とぼけ笑顔で 今日も行く

嘆きは誰でも 知っている
この世は悲哀の 海だもの
泣いちゃいけない 男だよ
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺(おい)らは街の お道化者
今日もプラカード 抱いてゆく

あかるい舗道に 肩を振り
笑ってゆこうよ 影法師
夢をなくすりゃ それまでよ
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは街の お道化者
胸にそよ風 抱いてゆく

2014年ももう間もなく幕を閉じようとしている。クリスマスも終わり、忘年会もめっきり減ったことだろう。
忘年会でもないが、生徒に誘われカラオケに行くことになった。
年に二三度行くか行かないかで、人に誘われてやっと行くほうで、よく勝手もわからない。持ち歌も大した数はなく古い歌ばかりだ。
そんな中、唯一心から歌える歌がこの『街のサンドイッチマン』である。
以前このブログでも書いた『誰か故郷を思わざる』と同じで、子供のころ、路上に石炭箱を並べて作ったにわかステージで、近所のおばちゃんやおっちゃんが歌う『町内歌謡大会』で初めて聞いた歌だ。
サンドイッチマンに扮した戦闘帽のおっちゃんが、真っ白な顔の両頬にまーるい日の丸を書き、プラカードをふりふり歌っていたその姿と歌いぶりが何とも印象深かった。忘れられない。
ドーナツ盤のレコードを買い、テープレコーダーに入れ、カセットテープに入れ、ウォークマンに入れ、今ではiphoneにまで入れている。
今こうして歌詞を読んでいても胸がジーンとなってくる。歌っている鶴田浩二がまたいい。特攻隊崩れの哀愁漂う歌い振りが心にしみる。
ぼくたちの時代はこんな時代だったんだ。
敗戦から立ち上がり、来年2015年で戦後70年、ずいぶん変わったものだ。この変わりようはぼくたちにしかわからない。
だからぼくの歌う歌は生徒たちにはわからないだろう。聞いてはくれていて、歌い終わると拍手はしてくれるが、お愛想だよおあいそ、優しいお愛想だ。
おなじで、一緒に行った生徒たちの歌はまるで分らない。異邦人の歌かなと思ってしまうほどだ。ちゃかちゃかちゃかとまるで早口言葉のような歌を歌う生徒もいる。なんじゃこれは、という感じだ。
曲探しのタブレットが右に渡り、左に渡り、歌っている人の歌にはまるで関心がない。しかし歌い終わると必ず拍手し、時にはほめ言葉を投げかける。
しかし不思議なことに、ぼくがこの『街のサンドイッチマン』を歌いだすと皆の動きが止まり、じっと耳を傾けてくれる気配を感じる。三番の「あかるい歩道に 肩を振り・・・」と歌いだすと手拍子をし、ぼくが肩を左右に振るのに合わせて皆も肩を左右に振っている。うれしい。鼻の奥がジーンとしてきて、涙が出そうになる。涙を抑えて歌い終わると、みんなが不思議そうにぼくの顔をじっとみている。心が通い合った瞬間だ。

ぼくはこの歌だけはのびのびと歌える。本当に街中をゆくサンドイッチマンになった気分だ。俺らは街のお道化者、胸にそよ風抱いてゆく人生の道化者だという感じだ。
戦闘帽のおっちゃんがのりうつったのか、鶴田浩二がのりうつったのか、自分が歌っている気がしない。大げさで叱られるかもしれないが、生きた時代がのりうつったような気がする。
だからみんなカラオケなんだ。あの四畳半か六畳位の暗い空間は、人が集っていても孤独であり、孤独であるがゆえに歌に浸り、それぞれがしょい込んだ喜怒哀楽をるつぼに溶かし、お互いの絆を確かめ合い、また新たな活力を生み出すブラックボックスなんだ。

日本のトイレはもはや排泄するだけの場所ではない。

東洋経済オンラインで表題に掲げた内容の日本のトイレ文化の考察が掲載された。
日本人の「清潔好き」と「技術力の高さ」が相互にトイレ環境を磨き上げ、独自の発展を遂げ、かつてない高みに到達している、といい、この特集では、日本のトイレ文化が世界にもたらす未来について5日連続で紹介されて実に興味深かった。
http://toyokeizai.net/category/toilet
確かに最近のトイレはきれいだし、まったく至れり尽くせりだ。
我が家にはまだないが、知り合いのトイレを借りてびっくりしたことがある。
トイレの入り口のスイッチを入れドアを開けると、便座のふたが自動的に空き、便器の中にはそれこそ今話題の青色発光ダイオードが青い光を放っている。
きれいで幻想的だ。横の壁には操作ボードが取り付けられていて、使い慣れないぼくには使い方もよくわからないいろいろなボタンが並んでいる。用を足し、最低限度の操作をして立ち上がると、水が便器の周りをくるくる回り出し、やがてふたが自動的にしまる。まるで誰かがぼくを見ていて世話をしているようだ。

昔、トイレ、いや便所は怖かった。
便所は部屋から離れていて、廊下伝いに行かねばならない。夜などは怖くて怖くて、便所に行くには一大決心がいる。それでも行けなくてとうとう寝小便、小学生の高学年まで続いたような記憶がある。
今でも覚えているが、一度などは、昼間だったけれども、廊下を歩いていると、廊下脇の土壁がもそもそと動いて次の瞬間、その土壁がどさっと崩れ落ち、同時に大きな蛇がお腹をいっぱいに膨らませて横たわっていた。土壁の隙間をネズミを追って丸呑みし、もがいて土壁を突き破ったとか。もうびっくり仰天、しばらくは一人で便所に行けなくなったこともある。
それにそうそう、昔は1か月に一度は近くのお百姓が便所の汲み取りに来てくれ、おまけに採れたての野菜や時には新米まで置いて行ってくれる。夏にはスイカを持ってきてくれるので、夏の汲み取りが楽しみだった。
牛に曳かせた大きな荷車に木製のタンクを積み、天秤の両側に吊った大きな木の桶に汲み取ってきたし尿をタンクに掛けた板梯子を伝ってタンクに上り、それをタンクに入れるのだが、一度、そのお百姓が板梯子を踏み外して転げ落ち、道中がし尿でいっぱいに広がったことがる。それ以来、そのお百姓を口さがない近所の人たちが「落ち目のおっさん」と呼ぶようになり、子供心に胸が痛んだこともあった。

もう隔絶の感だ。たった半世紀くらいの間に、トイレ事情もこんなに変わったのだ。
確かに日本人は伝統的にトイレには格別の思いと配慮を受け継いできている。
『古事記』にもある「厠(かわや)」はトイレの下に水を流す溝を配した「川屋」から来たそうだし、あからさまに口にすることが「はばかられる」ために「はばかり」「手水(ちょうず)」といったり、中国の伝説的な禅師の名から「雪隠(せっちん)」という語を使うようにもなった。昭和になると「ご不浄」から「お手洗い」「化粧室」としだいに表現がより穏やかなものが使われるようになったという。
石造りの手水にはいつも清澄な水が注ぎこみ、カタンコトンと鳴る手水鹿威しはなんと風情のあることか。

ここで思い出したんだが、「エスコート」の由来である。
昔イギリスはロンドンでも街中の家にはトイレがなく、し尿便を利用したそうだ。それが溜まると窓から通りに平気で投げ捨てた。通りがかりの人にはお構いなし。特にきれいに着飾ったレイディには大迷惑で、連れの男性は女性を守るため必ず窓側に並んで手をつないだ。それがエスコートだそうだ。

10年ほど前、中国北京でも実際に経験したことだが、かの有名な天安門広場のすぐ南側に大きな商店街がある。そこで突然便意を催したんだがトイレがない。何軒かの店に掛け合ったんだがすげなく断られ、途方に暮れていると知人がやっと公衆トイレを見つけてくれた。通りから少し入った公衆トイレにもう一目散で駆け込んだんだが、ぎょっと立ちすくんでしまった。コンクリート製の大きな台座があって、そこに男4人が並んでこちらを向いて排便中だ。もう何もかも丸見え。しかもお互いに顔を見合わせて談笑している。しかしもう我慢がならない。あと一つ空いていた場所に駆け上がって事なきを得たんだが、背に腹は代えられないとはこのことだ。

もう便所とは言わない。日本人の多くがトイレという。おトイレともいう。toiletが語源だが、アメリカでは、toiletは「化粧室」を意味する場合もあるが、「便器」を意味する直截的な単語でもあるため、日常会話では「bathroom」と呼んだり、「rest room」、あるいは「men’s/lady’s room」と婉曲的な表現を用いることが一般的だそうだ。できたら「トイレ」は避けて「手水(ちょうず)」くらいがいいんだがなあ。

この記事を読んで「トイレ」がまた日本の文化を象徴するだけでなく、世界の環境保護にも大きく貢献すること、世界の文化レベルを一段と引き上げる大きな役割を担っていることを再確認した。

時刻Wのお話 ーワルシャワ蜂起ー

 

♪♪♪ 夜想曲 20番 ♪♪♪

2014年8月1日、ポーランドの首都ワルシャワ、時刻W(午後5時)、街中の人の動きがピタッと止まる。けたたましいサイレンが鳴り響く中、1分間の黙祷が始まった。子供も大人も、男も女も、家族連れも恋人同士も微動だにせず黙祷をささげている光景は今や異様にさえ見える。
NHK BS1スペシャル『ワルシャワ蜂起 葬られた真実~カラーでよみがえる自由への闘い~』には、またまた魂が揺さぶられた。

1944年8月1日、ナチスドイツ占領下にあったワルシャワでポーランド国内軍約5万人が一斉蜂起した。
その5年前の1939年9月1日、ドイツ軍とその同盟軍であるスロバキア軍がポーランド領内に侵攻し、ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが相互援助条約を元に9月3日にドイツに宣戦布告して始まった第二次世界大戦。大戦当初は、最新兵器を装備した近代的な機甲部隊を中心とするドイツ軍に対し、偵察部隊などに騎兵を依然として多く残し機械化の遅れていたポーランド軍は不利な戦いを強いられ、勇ましくもドイツに宣戦布告した英仏両国もドイツとの全面戦争をおそれるあまり本格的な戦闘行為には踏み切れず傍観する事に終始、間髪を入れずの9月17日には、ドイツとポーランド分割の密約を結んでいたソビエト連邦が東部地域に侵攻して1ヶ月足らずでポーランドのほとんど全土が分割占領されてしまったのである。
1944年にはそれまでヨーロッパ本土でのドイツ軍勢力のほとんどがソ連に向けられていたが、ソ連のヨシフ・スターリンの第二戦線構築の呼びかけでイギリスやアメリカが西部戦線を拡大、ドイツ軍はこの対応のため東部戦線は縮小せざるを得なくなる。その隙をついてのワルシャワ蜂起であるが、川ひとつ隔てた所にまで進駐したソ連赤軍を頼りにしたのが大間違い。イギリスに置く亡命政府のポーランドの解放と自由を求めるポーランド国内軍を援助する目的はさらさらなく、ドイツ軍に打撃を与え、ひいてはポーランド国内軍の自滅を図ってのそそのかしで、それを察知したアドルフ・ヒトラーは、ソ連赤軍がワルシャワを救出する気が全くないと判断し、蜂起した国内軍の弾圧とワルシャワの徹底した破壊を命じる。そして8月31日にはポーランド国内軍は分断され、9月末には一部のゲリラ部隊を残し壊滅するのである。
ワルシャワ蜂起による市民の死亡者数は18万人から25万人の間であると推定され、鎮圧後約70万人の住民は町から追放された。また、蜂起に巻き込まれた約200名のドイツ人民間人が国内軍に処刑され、国内軍は1万6000人、ドイツ軍は2000名の戦死者を出したといわれている。
その後のポーランドは長くソビエト連邦の影響下に置かれたが、1980年、東側社会主義国で初めての自主管理労働組合である「連帯」が電気技師レフ・ヴァウェンサ(日本ではワレサで有名)によって結成されることにより、いわゆる「東欧諸国」から離脱、1989年9月7日、非共産党政府のポーランド共和国(現在)が成立するのである。そして第三共和国初代大統領に「連帯」のワレサが就任したことは、後のソビエト連邦崩壊につながっていく。

このワルシャワ蜂起に立ち上がった人たちがまだ存命していて、つい3か月前の2014年8月1日の記念日に参列、一人の女性戦士が現大統領を新しくできたワルシャワ蜂起の同志の名が刻まれたモニュメントに案内する場面が映されていた。
20世紀はそんな時代だったんだ。
いつも思うんだが、大きな感動はどうして大きな悲劇の中でしか生まれないんだろう。
戦場のピアニスト』という映画、これにもいたく感動した覚えがある。
ナチスドイツがポーランド侵攻したその日、ポーランドの首都ワルシャワのラジオ局で、ユダヤ人ピアニスト、ウワディクことウワディスワフ・シュピルマン(エイドリアン・ブロディ)がショパンの『夜想曲 20番』を演奏している場面から始まるこの映画も、ワルシャワ蜂起の中で起こった一エピソードを描いたものである。
それにそうそう、ユダヤ人の悲劇の数々とその感動のドラマ。ポーランド。ショパンか。行ってみたいなあ。

東京は高円寺、純情商店街の銭湯には、

東京・高円寺の「純情商店街」を抜けた裏路地に、創業以来80年という老舗の銭湯がある。四国道後温泉を思わせる木彫り屋根を少しあしらい、「本物の自然回復水使ったいます」というのぼりを立てた「小杉湯」には昔懐かしい人情の機微と人生の哀歓が溢れていた。
10月31日、NHKの『ドキュメント72時間』で放映された下町の銭湯風景である。

お昼の3時半にオープンして深夜2時まで開いている「小杉湯」には、時間時間に応じた実に様々なお客がやって来る。
「ミルク風呂」と書かれた玄関の硝子戸を開け、番台を通り抜け、何もかも脱ぎ捨てて湯けむり蒸せる風呂場に入ると、正面向こうには一面に、富士山を描いた大きなタイル絵があり、もうかなりたくさんのお客が湯船につかり、体を洗っている。
湯船から溢れ出る水の音、蛇口から出る水の音、シャワーの音、あの銭湯独特の談笑しあう小気味のいいくぐもり声。
お爺さんと息子とその孫三代が一緒になって湯船ではしゃいでいるのが微笑ましい。
女風呂から出てきた二十歳前後の女性ふたり。淡路島から東京に出てきて、将来は原宿あたりでお店を開くのが夢だという女性と、その女性を三日間訪ねてきた幼馴染の二人連れ。風呂上がりのいい気分のところで冷たいフルーツ牛乳で乾杯!
真っ赤な鉢巻にサングラス、髭ぼうぼうの46歳は建築現場の労働者。怖そうな風貌とは裏腹に、ぶっきらぼうな受け答えにもどこか優しさが隠せない。銭湯を出ると、隣のコインランドリーで洗濯しておいた作業服三日分を大きなボストンに詰め、今日の疲れをすっかり洗い落としたに違いない。「よしっ!」と言って街中に消えていく。
番台あたりで何かを探している21歳の若者。失くした下駄箱の木札の鍵を探しているのだという。マン喫(マンガ喫茶店)に寝泊まりして一か月。お笑い芸人を目指して敢えて厳しい環境に置きたいと家を出たそうだ。木札が見つかるとほっとしたように、生活用品を詰め込んだバッグからノートを取り出し、その中から選び出した自慢のネタをパフォーマンス。見ていてまったく面白くもない。がんばれよ。
こちらには日本語ペラペラのイタリア青年が顎まで湯につかっている。大学で日本語を勉強したが、不況真っ只中のイタリアでは職もなく、日本にやって来て就活中。就活中のストレスはここのお風呂で解消するという。
お昼の3時半にはシャッターが開く前から人の行列。いちばん風呂を目指したお客はシャッターが開くのもももどかしく、潜り抜けるように入っていく。この時刻にはやはりお年寄りが多い。中にたまたまいた若者に72歳の詩吟の先生が近づいて来て、「今日行く(教育)ところ、今日用(教養)を足すところ」と風呂になぞらえて人生訓を垂れ始める。若者は嫌がることもなくにこにこ聞いている。
89歳の母親を連れた娘さん(?)がやってきた。60年間通い続けているという。商売の合間を縫って、生まれたての娘をきれいないちばん風呂に入れたくてやって来て以来ずっと通い詰めているというからこの風呂いちばんの常連さんだ。
6時半頃、今度は87歳の杖を突いた老人と67歳の男性が介添え役のようにやってきた。元塗装工で上司と部下だったという。奥さんを亡くし一人住まいの上司とこうして週に何回かは一緒に来て、一人前に育ててくれた上司の今でも大きな背中を流し、もう負けないくらいに大きくなった元部下の背中を流しあうこの二人には、そこに刻まれた年輪の深さと計り知れない心の絆を知る思いだ。
日付が変わるころ、疲れた風の若いカップルがやってきた。25歳の青年はサーカス団でピエロをやっていたがそのサーカス団が倒産、今は大道芸人で生計を立て、パートナーの女性もパントマイムをやっているという。今一番の悩みは、結婚はしたいんだが女性の親からは「書類審査」で不合格になり、今はひたすら合格点に届くべく、二人で支えあって修行中だそうだ。将来の夢は大きく、世界中を笑顔に変えたいというこの純情な青年には思わず拍手した。
腰まで届く長髪の青年服飾デザイナーとその部下、と言ってもほとんど歳の変わらない茶髪にアフリカのどこかの部族がする大きな耳輪にピアス満載の青年の二人連れ。誰にも負けたくない。ゴキブリブランドを立ち上げるのが夢だという。お風呂の中では風呂仲間だが、いったんお風呂を出ると厳然とした上司と部下だと認め合う。上司の自転車を追って部下は赤いテールランプを点滅させながら寝倉に帰っていった。
49歳の独立間もないコンサルタント経営の独身女性。風呂上がりのビールを屋台で引っ掛けてから出勤するというママさん。車椅子に乗った母親を押してやってきた青年。風呂上がり、前の食堂「丸長」で「ネギ風味鶏のから揚げ」定食650円を頬張る31歳の警備員。車椅子生活を余儀なくさせられた娘とこの先のことを心配げに語る65歳の男性。
いろいろだ。様々だ。しかし、どれもこれも、いや誰も彼も、風呂上りの何とも言えないほっこり感が伝わってくる。一時とはいえ至福の極みとはこのことだ。

「小杉湯」の路地を出ると、路上でギターを弾く若者、上海で見かけたような路上食堂、自転車が行きかい、決して不快でない食の匂いと様々な騒音がこだますここ東京の下町が、遠ーい昔の感懐を呼び起こし、もう二度と戻ってくることはないと思っていた原風景にいざなうこのテレビ画像に食い入るだけであった。

運・不運 ー 御岳登山の追想 ー

日本には3000mを超える山が21峰ある。
北アルプスの後立山連峰烏帽子岳から三俣蓮華、双六、そして槍ヶ岳を経て奥穂高岳を辿ったのがもうおよそ50年前。その中に、槍ヶ岳、中岳、大喰岳、南岳、北穂高岳、涸沢岳、奥穂高岳と7座が3000mを超える山で、最初にして7座の3000m級を制覇したわけだが、当時はそんな高さのことはあまり気にも掛けなかった。
爾来、富士山に登り、北岳に登りしているうちに、日本には3000mを超える山が21峰あることを知り、それではそれを全部登ってやるかと、気が向いたときに登っている内、とうとう20峰は登り、最後はと決めていたのが木曽の御岳山である。
この御岳山を最後と決めたのは、日本の山岳信仰の中心的山であること。その裏か表か知らないが、岐阜県側に濁河温泉という温泉があって、日本最後の秘湯、なんでも、下呂方面から辿る道は普通乗用車では行けない悪路で、バスが1日1本あるだけということに言い知れぬ魅力というか執着心を持ってのことだった。
しかし、この御岳登山はいろんな事情があってなかなか実現できず、つい去年(2013年)の秋口、ふと思い立って、家庭教師を終えた後、車で御岳山を目指すことになった。
最初の後立山縦走から槍、穂高連峰縦走の時もそうだったが、今から思えばこれもまた無謀な目論見で、高速道路のサービスエリアで睡眠をとりながらの道中が災いしたのか、御岳山7合目(標高2,180m)の王滝口に着き、少し仮眠をとって登山を開始したんだがどうも調子が良くない。若い時の無理が利かない自分がわからないのか、時々こんなバカを繰り返すこの頃だが、この調子で登り続けてもこの先大丈夫だろうかという不安がよぎると、もう足が進まなくなった。ということでこのときは断念。
さて今年は昨年の捲土重来を期して、時期も最もお天気が安定している8月の初めにとり、車もJR木曽福島駅前に置き、バスとロープウェイで7合目の黒沢口から登る計画を立てた。もちろん御岳山頂上を目指し、縦走、そして念願の濁河温泉に下る予定だ。
ところが今年の天候は異変続きで、例年なら晴天続きの8月上旬もどの日も曇りか雨。つい先月も南木曽(なぎそ)で大規模な土石流が発生し、JR中央線もやっと復旧したが快速はまだ走っていないとか。
そんな中、3日から6日にかけてだけ晴れマークがついていたのでここぞとばかり予定決行とあいなった。
なるほど予報通り、ふもとの木曽福島は晴天とまではいかないまでも8月の暑い陽光はさしていたんだが、バスそしてロープウェイと辿るごとに日差しも弱まり、黒沢口についたころには小雨が降りだしていた。まあしかし6日までは晴れマークがついていることだしと雨具をつけて登りだしたんだが、登るごとに雨脚が強くなり、おまけに藪の中の道なので、やぶ蚊が払えど払らえど顔中に群がってくる。1時間と少々で着くはずの八合目の女人堂(標高2470m)まで2時間はかかっただろうか。その女人堂に着いた時には雨だけでなく風も相当強くなっていてもうずぶ濡れ。その上あのやぶ蚊にやられた耳が腫れ上がり気が狂いそうなほど痒い。とりあえず衣服を着替え昼食をとって様子を見ようとしたんだが雨風は強くなるばかり。ここから3時間は掛かる最初の宿泊地、二之池小屋(標高2905m)にはとてもとても行けそうにない。この日は女人堂泊まりに変更した。
女人堂には白装束の行者連が20名ばかり泊まっていたが、その内の一人に聞くと、彼女は30年間毎年8月4日に登ってくるのだが雨にあったのは今年が初めてと言う。なんという不運。
翌朝早朝の出発を決めて天候の回復を願ったが、台風13号の接近もあって回復しそうもない。そしてこの台風13号、8月に発生した唯一の台風で、統計史上8月に発生する台風は1年で最も多く平均6個は発生するそうだが、今年は異常中の異常ということ。しかもしかも、この13号最初はハリケーンで日付変更線を越えたものだから台風と名付けられたそうで、8月の台風発生件数は実質0というから、その台風が接近とはまたなんという不運。

今年もついに御岳山登頂ならず。

翌朝、山頂周りで予約していた濁河温泉は是非とも訪れたいと、雨風の中早々に下山。ふもとに置いた車で岐阜県に回り、一路濁河温泉を目指す。
国道から分岐した一筋道は快適そのもの。もちろん濁河温泉までは道幅も十分、全面舗装。長い道中、車こそほんの数台しか出会わなかったが昔聞いた濁河温泉とは大違い。温泉宿も7,8軒あって洒落た造りもあってちょっと面食らった。
予約してあったのは『湯の谷荘』。いちばん奥深い温泉宿で素朴な地元料理がうれしい。ここのバスの運転手をしていたというご主人とその奥さんご夫婦二人で切り盛りしていて家庭的な雰囲気がこれまたいい。

9月27日の御岳山噴火にはびっくり仰天。10月9日現在で死者55名、行方不明者少なくとも8名というから、この人たちはなんという不運。
この1か月少し前に登ったぼくは不運に付きまとわれたとばかり思っていたが、いまはただ運が良かったと感謝するばかり。
亡くなった人たちのご冥福を祈り、怪我をされた方々の1日も早い回復を願える幸運を噛み締めているところです。

2014年9月

 
☆★☆ 日本の異常気象 ☆★☆

今年の9月は長い。どうしてなんかなと考えてみたんだが、思い当たるのは気温だ。
確か去年は、8月の下旬から9月の第1週当たりにかけてやっと秋かなという気配がしたんだが、それもつかの間、第2週当たりから連日30度を超す気温がぶり返し、9月下旬辺りまで続いたような気がする。
ところが今年は8月も不順な天候が続き、気温35度を超す猛暑日が0という地域も多かったし、日照時間は例年の半分というところも多かった。
9月に入ると気温もグーンと下がり、どうせまた暑さがぶり返すんだろうと思っていたらそれもなく、比較的涼しい日が続き、夏蒲団では寒くてという日もあった。
だから、去年の記憶が頭に残っていて、こんなに涼しい日が続くのはもう10月なんだと錯覚し、カレンダーを見るたびに、あれっまだ9月なんだと思うことが何度かあって、そのせいで今年の9月は長いと感じているのだろう。

しかし近年、どうも毎年毎年の気候が一定しなくて、記録破りのとか、観測史上稀にみるといったお天気情報が多いような気がする。
今年なんかは、ゲリラ豪雨とか、局地的大雨が頻発し、大災害に見舞われたところも多く、超ド級の台風も接近したし、まだまだ予断を許さない。
そのせいもいあってか、野菜の値段がべらぼうに高く、高級果物も色なしといった状況だ。
日照時間がこれほど短いとお米の出来も悪いだろうし、野菜の値段ももう高止まりで一向に下がる気配はない。
この分では、10月に予定されている消費税10%の決定も難しいところだが、日本の健全財政を期待する外圧も高く、不況からの脱出が遅れても消費税増税は避けられそうもない。

昔のような、松の根をかじって飢えを凌ぐというような飢饉はないかもしれないが、こう天候不順が続くようでは「平成の大飢饉」もまんざら杞憂でないかもしれないと思ってしまう。
涼しくて夜もよく眠れ、いっとき心配していた睡眠障害も持ち直したのはいいんだが、この心地よさと裏腹な心配事が沸々と湧き起ってくるのも今年の9月の印象だ。

夏休みの宿題

夏休みもお盆を過ぎると、また学校が始まること、とりわけ、出された宿題のことが気になることだろう。
「気になることだろう。」と他人事のように言うのも、自分の小学校、中学校そして高校生のころ、宿題は出されたんだろうがそれがどんなものだったのか、この歳になると、もうまるで思い出せないからだ。
ぼくのように長年教育に携わってきた者、この年頃のお子さんをお持ちのお母さん、お父さん以外の人にとっては、「宿題」という言葉を投げかけられなければ、それほど関心のある問題ではない。
でも日本人である限り、この宿題に取り組まない者はなかったはずである。

さてこの宿題、果たしてどれだけ意味のあることなのか、真に問われないまま、ただ惰性的に、親も教師も、社会とは言わないまでも、およそ教育に関係のある者まで、見過ごしてきているのが現状だし、それでいいのだろうかと問い直したい。
結論から言えば、ぼくは宿題無用論者だし、むしろ有害論者だといっていいい。
それでも毎年毎年、家庭教師をしているぼくは、特に夏休みに出される学校の宿題では生徒と悪戦苦闘、無用論者、有害論者の信念を投げ捨てて、何とかその宿題の提出期限に間に合うよう、生徒を励まし、奮闘努力しているのである。
夏休みの「休み」にいったい何の意味があるんだろうとつくづく思う。
学校によっても、また地域によっても、はたまた受験その他の条件によっても、宿題の事情は様々なんだろうが、一般的に言って、これ、つまり「宿題」も子供虐待、児童虐待の何物でもないケースが多いんじゃないだろうか。ぼくの最近見てきた生徒は、多く、そういうケースに当てはまる。
勉強のできる子にとっては邪魔だし、できない子にとっては地獄だ。どれだけの生徒がこの宿題に有意義を見出しているだろうか。

思うに、この「宿題」も日本独特なもので、富国強兵、国民皆教育のもと、明治維新から引き継がれた国家目標を達成すべく教育現場に持ち込まれたもので、個性よりも集団、自由よりも平等を重んじた産物なのだろう。
今の日本を見るとき、日本の教育制度は決して間違ったものでなかったこと、むしろ世界に誇れる様々な事象を生み出したことは確かだ。
だが、今は違う。これからの日本が歩むべき道は違う。
教育水準の高さは世界に冠たるものはあっても、その内実は制度疲労を起こし、理想高き明治の教育理念に胡坐をかいていることおびただしい。

ここに取り上げた「宿題」は、単に宿題されど宿題程度の話題かもしれないが、教育の現状を憂えるぼくにとっては、皆にもう一度考えてほしい問題である。
白雲がもくもくと湧き上がる空のもと、海に山に思いっきり若さをぶつけ、数学のこと、英語のことはひと時忘れ、英気を養う時こそ、夏休みなのだ。
それでも勉強したいヤツは勉強すればいいし、ボーっとしたいヤツは1カ月間ボーっとすればいい。
誰からも指図されず、自分の過ごしたいように過ごすからこそ、夏休みには意義がある。

家庭教師が見た一例

ある年の夏、A君の家庭教師を頼まれた。
大阪でも指折りの進学校で、中高一貫教育が基本であるが高校からも入学でき、A君は高校から入った。
なんでも、高校からは130人入学し、1年後には30人が脱落、A君はかろうじて退学は免れたが、残った100人の中で成績が最下位であるという。
夏休みの宿題がどっさり出され、その課題テスト次第で退学させられるのか、退学せざるを得なくなるのか、ということで家庭教師を依頼されたわけだ。
この高校、偏差値が70を越えなければ入れないというから、中学では相当頑張ったのであろう。おそらくトップクラスにいたはずだ。
ところが最初見た限りではその片鱗もなく、どの科目もどの科目もひどいもの。数学も英語も、物理も化学もまるで基礎ができていない。
理由を聞くと、高校に入ってすぐは勉強が手に着かず、そうこうしているうちに瞬くうちに学校の勉強についていけなくなったという。何度も立て直しを図ったけれどももうどうにも追っつかない。半ばあきらめて今に至っているとのこと。
おそらく脱落した30人も同じ経緯を辿ったに違いない。
そして、今回出された夏休みの宿題が、これがまたどの科目も過去に出された入試問題で難問揃い。A君に解けるわけがない。しかも大量にだ。
一題一題を解くためにすべて基礎から掘り起こさねば理解できないし、解けない内容だ。
こんな宿題をA君のような生徒に出して何の意味があるんだろうか。おそらく、もうこの学校から出ていきなさいよ、という魂胆ありありとしか勘繰らざるを得ない内容である。
初めは、それでも、家庭教師が付いたことだし何とかしようとA君も頑張ってはいたし、こちらも何とかしてやろうと努力したんだが、1週間が経ち、2週間が経つうち、A君の勉強態度に投げやりな姿勢が目立つようになり、こちらに対する態度や言葉づかいにも刺々しさが目立ち始めた。
それだけではない。しばらくはこちらがどう働きかけても虚ろに一点を見つめているだけで何の反応もなく、突然ふっと我に返ったようにノートを見て何か書こうとするが先に進まない。変に言葉をかけてもとじっと見守っていると、突然「ここがわからん!」とこちらを睨みつけて怒鳴るように言う。「切れる」という言葉ぴったしの表情だ。恐怖さえ感じる。先ほどあれだけ丁寧に説明したことをまるで覚えていない。
ここまで来ると、もう単に勉強を教えるというだけでは済む問題ではない。A君の言動や態度から判断していわゆる「パーソナリティ障害」が疑われる域に達している。
A君のお母さんに事情の一部始終を説明して、これ以上の指導は困難なこと、勉強のことよりも精神的なケアの必要性などを申し上げて家庭教師を辞退させていただくことにした。

A君だけではない。人間形成において勉学、中でも学校教育の歪みから様々な障害を生み出しているケースが増大しているのは確かだ。
最近多発している若年者の痛ましい事件もこうした歪みが原因の一部を担っていることは十分考えられる。
多くの生徒や学生は様々な困難を克服しすり抜けながら社会生活に適応していくわけだが、中には挫折して心身に傷を負い、一生涯その傷を癒すことができない者もいる。
そんな時、学校の果たす役割は重要であるが、果たして今の学校は人間形成の場としてその役割を果たしているであろうか、大いに疑問である。
特に気になるのは、将来大学進学を目指すのに、6年一貫教育を標榜する有名校が有利として中学受験を目指す向きが多いが、大人が考える以上に子供たちは真剣で、重大事として受験に臨んでいるのであって、そこで挫折した傷は大きい。そういう生徒たちもたくさん見てきた。
通ればもうけもの、落ちてもともと、といった安易な気持ちで受験する子供たちは決していないことを銘記すべきである。

15歳の志願兵

 
☆★☆ 15歳の志願兵 ☆★☆ (なぜかNHKのアーカイブでも見ることができません)

来年2015年で戦後70年を迎える。
毎年8月が近づくと第二次世界大戦のこと、日本の参戦と敗戦、広島と長崎の原爆投下のこと等が取り上げられ、マスメディアでも連日関連番組で賑わう。
上にあげた『15歳の志願兵』は、NHK総合テレビのNHKスペシャル枠で、2010年8月15日に放送されたテレビドラマの特別番組である。
第65回文化庁芸術祭優秀賞(テレビ部門・ドラマの部)、第48回ギャラクシー賞選奨受賞。視聴率7.2%というこのドラマは、今なぜかNHKオンデマンドでも見られない。

70年が長いのか短いのか。韓国は「慰安婦問題」でますます反日キャンペーンを強め、中国は中国で反中国包囲網の中、我が無二の同志を得たりと韓国を抱き込もうと必死だし、第二次世界大戦の記憶は薄まるどころか、蒸し返しに躍起になっている。

そんな中、先日、幻の15歳兵の生き残りの橋上さん(仮名)にいろいろお話を聞くことができた。

戦前の日本は徴兵制を敷いていて、男子20歳になれば徴兵検査を受けねばならず、徴兵検査の結果、甲、乙、丙、丁、戊の5段階に分けられて、甲と乙は合格、戦況とともにそれが丙にまで合格適用され、必要に応じていわゆる「赤紙」が来て召集となった。これは陸軍に限ってのことで、海軍は志願兵が主流のため、召集は限定的であった。
1941年に太平洋戦争が起こると、年を重ねるごとに戦況は厳しくなり、兵役義務年齢もそれまで20歳であったものを1943年には19歳以上、1944年には17歳以上に引き下げられた。
それ以外にも「志願兵」という仕組みがあり、17歳以上であれば軍隊に志願できたわけであるが、その年齢も1944年には14歳以上にまで引き下げられ、男子14歳になれば17歳の徴兵年齢を待たずとも、学校や周りの者たちが「志願」することを半ば強制したり、勧めたりして、実質戦争に参加せざるを得ない仕組みを作り上げた。世に言う「15歳の志願兵」である。

橋上さんは昭和2年(1927年)生まれ。1942年に15歳で陸軍の少年飛行学校に入隊し、16歳で実戦配備され、副操縦士として1943年の重慶爆撃にも参加したという。当時は航続距離で中国奥地の重慶まで護衛できる戦闘機がなく、爆撃機単独で乗り込んだわけだから日本軍爆撃機にも相当な被害が出た。橋上さんも副操縦士が乗る後部座席で後頭部に被弾するも、貫通銃創でなくて命拾い、血みどろで帰還したという。
少年飛行学校の入校資格者の最年少は、中等学校2年修了者か高等小学校卒業生なので14歳か15歳、今の中学3年生である。若者というよりは、「子ども」といってもいいくらい。それが1年かそこらで実戦配置につき、敵の銃弾を受けるのである。
橋上さんはその後各地を転戦し、終戦間際には鹿屋航空基地に配属され、その戦歴から神風特攻隊の護衛、聞こえはいいが監視役、つまり、途中で脱落する特攻機はいないかを監視する役目に着いたそうだ。その時が一番つらかい時期だったと言う。
人は誰もがいい役割についたと言うが、自分にとって、これほど腹立たしく、侮辱的な言葉はないと真顔で言う。
特攻機との別れ際に別れの手を振る隊員の顔かたちがはっきり見え、自分も何度そのまま特攻機とともに突っ込んでいきたいと思ったことか。次はどうぞ自分に特攻機乗りの順番が回ってくるようにと祈ったそうだ。それが当時の少年飛行兵達の偽らざる気持ちで、今の自分も含め打算にまみれた人間には到底理解できないだろうと。
だから、いっときは新聞社や雑誌社からインタビューの申し込みが数多くあったが、すべて断ったという。「お前らには俺の気持ちが分かるか!」という心境だったという。
橋上さんは、87歳になった今も生き残ったがために苦しみ、そこから抜け出られないという。死ぬまで我慢するしかないと深く自分に言い聞かせているという。