プーチン大統領と遅刻

 
ロシアのプーチン大統領が12月15日に日本を訪問した。
北方四島と日ロ平和条約問題に何らかの進展があることを日本人の多くは期待したが、またまた肩透かしを食っただけで、要は経済問題に終始しただけの日ロ首脳会談だったわけだ。
ここでも、だから、そういう主要問題はさておいて、プチン大統領と遅刻ということに焦点を当てて、きわめて個人的、学術的(?)問題として取り上げてみた。

Newsweek日本版の16日付にこんな見出しが載っていた。
『遅刻魔プーチンの本当の「思惑」とは』という題名で、見出しが<外国の首脳らとの会談に、プーチンはどうやらわざと遅刻しているようだ。ロシアでは、そのことで交渉を優位に進められると考えられている>(写真:予定よりも約3時間遅れて山口に到着したプーチンは、出迎えの岸田外相と余裕の笑みで握手を交わした)というものだ。

プーチンは最初の訪問地である山口県に予定より遅れて到着し、会談場所となった長門市の温泉旅館には約3時間も遅れて入ったそうだ。
ロシア側の釈明によると、ちょうどシリアで政府軍が反体制派の拠点アレッポを制圧した「シリア情勢」に対応するためということだが、いかにも言い訳がましいことは歴然としている。
実はプーチンの遅刻はよく知られていることで、上の写真にもある通り、今回の大統領の訪日の打ち合わせのために、12月に岸田外相がロシアの首都モスクワを訪問した際にも、プーチンは岸田外相を2時間も待たせている。
それだけではない。
2015年にはバチカンで、ローマ法王との会談に1時間遅れて登場したし、実はその前の2013年にローマ法王と会った際にも、50分遅刻している。
2003年にはイギリスのエリザベス女王は14分待たされ、ウクライナのヤヌコビッチ元大統領は4時間も待たされたそうだ。
2012年にはドイツのメルケル首相との会談に約4時間遅れ、2014年にはまたまた同じメルケル首相主催夕食会に大遅刻し、とうとうメルケル女史を怒らせたこと言いうことだ。
そして今回の訪日における遅刻も含めて、すべてのマスコミがその都度この問題を大々的に取り上げるわけだが、すべてが判を押したようにNewsweekと同じ視点からプーチンの『思惑』―恰好付け―として取り上げている。

そうではないと思う。
これは極めてプーチンの個人的理由によるもので、端的に言えば発達障害に属する広汎性発達障害(PDD)もしくは注意欠陥・多動性障害(ADHD)の病理学的理由に基づくものである。
おそらくプーチンの側近は知っているであろうし、日本側にも内密には知らされているかもしれない。
極めてデリケートな問題であり、誤解を招きやすい問題だけに公にはしていないだけで、マスコミの的外れな見解はプーチンにとっては勿怪の幸いというわけだ。
調べてみたら、このことはもうすでにアメリカ国防省が公表していて(http://www.excite.co.jp/News/odd/Karapaia_52203819.html?_p=2)アスペルガー症候群に属するとしていて、プーチンの上に挙げた遅刻の事例も、これにより各国が許容しているし、ロシア側も何とか繕っていると見做すのが妥当なところではないだろうか。

こんな事例を体験した。
高校3年生の女子生徒だったが、不登校になり、個人指導を頼まれた。
朝10時から我が家にきて授業を始める約束だったんだが、10時までに来れたのはほんの1,2週間。それ以降は11時にしか来れない。こちらの都合もあるので何とか10時に来るように説得して本人もその場は納得するんだが、やはり来ない。理由を聞いても答えないし、だからと言って何ら悪びれる気配もない。とうとう11時始業と諦めた。
これも教え子の高校3年生だったが、男子生徒で、朝8時半の始業の学校なのに9時半にしか登校できない。中高一貫教育の私学の生徒だったが、学校も諦めて6年間9時半登校を許したという事例。
もう一人は50代の女性で、或る教育研究会に所属し、3カ月に一回例会があったんだが、毎回1時間は遅れて来る。その為に例会の始まりもいつも1時間遅れ。来た時には謝罪の言葉は全くなく、ニコニコ顔でご登場。会のメンバーも、最初は憮然とし、何回目にかは呆れ顔、最後には無視ということになったという事例。

こういう人たちが居るんだ。プーチンもきっとそうだと思うが、よく聞いてみると、本人はやはり悪いとは思っていて、何とか時刻に合わせようと努力するんだが、できないと言う。
プーチン大統領も、アメリカの国防省が公表した通りで、政治的駆け引きによるものではないとみるのが正しい。
と、すると、今回のこの件に関するマスコミの取り上げ方は異様だ。
Newsweekを始め、ほとんどのマスコミが、プーチンの遅刻を政治的駆け引きとみなしている。
今回に限らず、最近のマスコミは、いや昔からそうだが、どうも偏向性症候群のきらいがあるようだ。

アンシャン・レジーム

 
アメリカ大統領選挙は大方の予想を裏切って「暴言王」トランプが勝利した。
今や世界中がちゃぶ台をひっくり返したような大騒ぎ。この話題で持ちきりだ。
日本の株価は、トランプが勝利したその日は1,000円を超える大暴落。翌日は1,000円を超す大暴騰。その落差たるや2,000円をを超えたわけだから正しく激震が走ったわけだ。
今我々はこういう世界に住んでいるから、この出来事はびっくりする出来事だが、どこか他人事のような、どこか劇場の世界に浸っているような気分になっている。
これが100年前、というまでもなく、50年前の世界であったら、これほどの激震がたちどころに世界を揺るがしただろうか。
このことこそが20世紀後半から始まった情報革命、世界史で誰もが勉強した産業革命に相当する歴史的エポックに起こった例示的出来事なのであって、実はこの情報革命のもたらす世界の変革こそが重要なのである。

トランプが勝利した瞬間、ふと思い出した言葉が「アンシャン・レジーム」である。高校の世界史で習った言葉が蘇ったわけだ。
アンシャン・レジームとは、もともとフランス革命以前のブルボン朝、特に16~18世紀の絶対王政期のフランスの社会・政治体制をさしている言葉であって、フランスが誇る歴史家であるアレクシス・ド・トクヴィルが『アンシャン・レジームと革命』で使ってから定着した歴史用語なのであるが、日本語では旧体制、旧秩序、旧制度などと訳語があてられ、転じて、フランス以外での旧体制を指す比喩としても用いられている。
アンシャン・レジームはフランス革命の勃発で崩壊し、一時ナポレオンの失脚により復活したものの、やがて7月革命により打倒され、近代社会の幕開けとなっていくのである。
18世紀から19世紀にかけてイギリスに発した産業革命とそれに伴う社会構造の変革、フランス革命等によってもたらされた人権思想が、ことごとくそれまでのアンシャン・レジームを打破し、やがてはアメリカという巨大国家を生み出していくのである。
それと同じことが今や世界中で起こっていて、21世紀以降経済発展著しいBRICs(ブリックス、Brazil, Russia, India and China)の誕生、イスラム圏・イスラム国家の台頭と混乱、アフリカ諸国の台頭と混乱、イギリスのEU離脱、フィリピンのドゥテルテ大統領の登場、今の韓国の大混乱、やがて訪れるであろう中国や北朝鮮の体制崩壊、アメリカ大統領トランプの出現、これらすべてが現代的意味のアンシャン・レジーム崩壊が始まっている証である。
我が国内においても、小池東京都知事の誕生もその小さな出来事かもしれない。
安倍首相が、トランプが勝利したとき、側近に「本音で語る時代が来たね。」と言ったそうだが、まさにその通りで、情報社会はすべてがあからさまで隠しようがない。隠しても必ずどこかで漏れる。
本音と建前の建前が通じなくなったというわけだ。建前を振りかざして人を騙そうとしても騙せなくなった。そんな時代が来たんだ。
21世紀ももうやがて20年。時代は変わり、変革著しい新時代に突入しているのである。

余談になるが、シンガーソングライターの森山直太朗と御徒町凧が成城学園高校3年生24名とともに作ったオリジナルソング「アンシャン・レジーム」という歌がある。
生徒たちの先生のあだ名から取って付けた曲名だそうで、高校生活を物語る思い出の代名詞であることから、このタイトルになったそうだ。さわやかでいい歌だ。
*http://www.tudou.com/programs/view/dE4F4AVL6GU/
(注:上のURLも無効になっています。いい歌なので探したのですが、どこにも見当たりません。どなたか情報をお持ちの方があれば教えてください)
ぼくもこうしてふと思い出した言葉が「アンシャン・レジーム」でつい話したくなったわけだが、やっぱり高校時代に習った言葉だ。高校時代は良かったんだなあ。つくづく思うよ。

アンシャン・レジームを吹っ飛ばせ!

拗ねる

 
このブログの固定ページ(写真下の黒帯にある見出し)に『まほろば俳句会』を載せている。
iPhoneという便利なメディアができ、もう肌身離さず持っているから自分の分身みたいな存在だが、これには、ズーム機能はないが結構高性能なカメラが内蔵されていて、ちょっと撮っておきたいなという場面にもすぐ対応でき、おっ、これはメモしておきたいなとか、これは誰かに送りたいなと思えば、メール機能があり、SNS(Social Networking Serviceの略で、社会的な繋がりを作り出せるサービスのこと。 SNSに登録し、誰かと繋がり、日記を書いたり、誰かの日記にコメントをつけたりすることで、情報交換や会話を楽しむことができる)機能があって、このiPhoneを持ち出してから始めたのが俳句だ。
俳句にはもともと関心はあったが、どこで句が思いつくかわからない。思いついても、メモ帳を持ち歩いているわけでなし、そのまま立ち消えるのが落ちだ。
ところがiPhoneのおかげで、句を思いつけば、ちょっと立ち止まってちょちょっとメモできる。ただメモするだけではつまらないので、twitterに書き込んで、誰読んでくれるを期待するわけでなく、ボタンを押せば記録はできる。
後で起こせば整理もできる。で、始めたわけだが、せっかくだから句を思いついた場面を記録できればなお良い。iphoneカメラだ。写真と俳句を結び付けた写真俳句の誕生である。
と、思いきや、webサイトを開けたら、あるはあるは、写真俳句なんてもうとっくの昔に思いついた人がいて、いっぱい載っている。
5,7,5、17音で思いのままをいかに人に伝えるか。芭蕉、一茶、蕪村から始まって幾多の俳人が挑戦してきた表現形態は、あくまでも言葉によるものである。
写真俳句は、その点からはちょっと邪道のそしりを免れない。映像は言葉よりも直截的に相手にイメージで訴える。
自分でも思うんだが、ある光景に感動して写真を撮る。そして句に纏め上げる。twitterに載せる。後で起こしてみて、句だけを、言葉だけを取り上げてみたら、なんと味気なくつまらん句だと、しょげかえることしばしばである。
が、これもまた新しい表現形態で、芭蕉の頃にはできなかった、この時代だからこそできる形態だと思えば慰めも付く。蕪村なんかは得意の南画を添えた俳句が多いが、これはその走りかもしれない。
ということで写真俳句を始め、その記録を留めておこうと立ち上げたのが上の『まほろば俳句会』なのである。

ところが、これがきょう取り上げた「拗ねる」なんだが、この我が『まほろば俳句会』に執拗な不正書き込みをされて、大迷惑を被っている。
「投稿大歓迎」と名打って、どなたにでも自由に投稿いただける設計にしていたんだが、ここに、俳句とはまるで無関係の、偽バイアグラの宣伝だとか、偽ブランド商品の宣伝などをどんどん貼り付けてくる。
初めの内は1日数件の書き込みであったので、その都度削除していたんだが、日を追って度が増し、一昨日なんかは数十件、いや百は優に超えていたようだ。
60秒の連続書き込みの制限を掛けているいるから、延べにして数時間を費やしての書き込みである。
自動書き込みもできるそうだから、それを利用しているのかもしれないが、もう病的としか言いようがない。
犯人が数時間かけて不正書き込みをしてもほんの数分ですべて削除できるからそれを実行して諦めさせようとしてもダメ。結果は火に油を注いだようなもの。今までにも増して執拗に書き込んでくる。
目的はわからない。宣伝としてもまるで逆宣伝で、そんな宣伝で顧客を掴めるはずもない。ひたすら相手をへこますことを目的としてとしか言いようがない。
いわゆる「掲示板荒らし」というやつだ。
世の中にはこんな人種もいっぱいいるんだ。世の中を拗ねているとしか思えない。自分の経験だけでも過去4回は「掲示板荒らし」に会っている。
まともに育ってこんなことをするはずがない。犯人は多分何かの原因で拗ねてしか生きられなくなったに違いない。それを想うと何か犯人がかわいそうになって来るんだが、人のそんな気持ちも理解できないほど拗ねきっているんだろう。
大阪府池田市の教育大付属小学校で起こった8人死亡の無差別殺傷事件の犯人宅間守なんかは、死刑執行のその場でさえ、生まれかわってもまた同じ事件を起こしてやるとうそぶいたそうだ。
困ったことだ。
こんな人種が少しでも減るような手立てはないものだろうか。

『まほろば俳句会』はOPENから会員制に切り替えた。

彼岸花

 
街の真ん中に住んでいる人にはなじみが薄いが、郊外に住んでいる人、特に田んぼに囲まれた地域に住んでいる人にとっては、秋のお彼岸頃になるといやがおうにも彼岸花は目に飛び込んでくる。
今年も然り。しかし、今年は開花が少し遅かったかな。
このところ日本、いや日本だけではなさそうだが、どうも気候が変だ。
西日本を中心に8月は記録的な日照不足で、九州北部や中国、四国で平年の30~40%程度。9月に入ると、今度は関東地方を中心に1961年以降最も少ない日照時間が観測されたという。東京などは最悪で平年比16%という、お天道様を忘れてしまいそうな日が続いたわけだ。
彼岸花の開花が遅れたのもきっとそのせいだろう。
例年、お彼岸の入りになると彼岸花の蕾が大きく膨らみ、お中日には「よっ、待ってました」とばかりに一斉に開花する。彼岸花の寿命もだいたいお彼岸の期間に相当するおよそ1週間くらいだ。
ただ、早く咲くのもあれば、遅れて咲くのもあるから、3週間くらいは咲き続けているように見える。
今年のお彼岸の入りは19日だが、蕾も小さく、お中日の22日になっても一斉開花というほどではない。お彼岸明けの25日くらいが盛りといった具合に、例年に比べて5日ほど遅れた。

彼岸花というと思い出すことがある。
前にも話したことがあるが、大叔父が浄瑠璃の師匠をしていたので、お弟子さんのいる淡路島によく連れて行ってもらったことがある。
小学2年か3年の頃だ。
ちょうどこのお彼岸の頃に連れて行ってもらった時の話だが、泊まっていた親戚の家のすぐ近くに村のお墓があって、いたるところに彼岸花が咲いていた。
あまりにも綺麗ので、小脇に抱えるほど彼岸花を摘んで家に持ち帰って叔母に渡したら、喜んでくれると思っていたのに、「そら、そんなにお彼岸さん取ってきたら、もう今日中に手が腐って手が取れてしまうぞ。」と顔をしかめた。
「はよ裏山に捨てて、手をしっかり洗いな。」というので、縄だわしで痛いほどこすって手を洗ったことを思い出した。
後で聞いた話だが、その頃まだそのお墓は土葬で、大きな甕に入れて遺体を葬っていたそうだ。
余談になるが、また別の夏、大雨が降ってそのお墓の甕がむき出しになり、隙間から髪の毛が出ていたということで大騒ぎになって、もう二度とそのお墓には行けなくなったこともある。

お墓に彼岸花がよく咲いたり、田んぼの畔によく咲くのは、彼岸花の根には、球根一つにネズミだと1500匹の致死量に相当する15mgのリコリンという猛毒がが入っていて、ネズミやモグラから害を防ぐために植えられたからだそうだ。
そう言えば、彼岸花には地方地方でいろんな呼び方が100ほどあって、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあ等々、不吉であると忌み嫌われる呼び名もあるという。

一つの茎に一つのあんなに大きな花をつける植物も珍しい。
前にも、北原白秋作詞、山田耕作作曲の歌曲「曼珠沙華」を投稿したことがあるが、あれなどは多分「ゴンシャン」と呼ばれたいいところのお嬢さんがなさぬ仲で子を身ごもり、おろしたのか流れたのか、水子を偲んだ歌だともいう。
暑い暑い夏をやっとこさで越え、澄んだ秋空の下には稲もたわわに実り、あちらこちらから祭り拍子の太鼓や笛が流れ、飲み、歌い、踊り、これからまた長い冬を越さねばならない、毎年毎年のことながら巡る季節の中での人の営み。
それらがぎゅっと凝縮したような、艶やかでいて、毒々しくもあり、見ずとも見てしまう彼岸花、仏名曼珠沙華、彼岸花であって此岸花。そういえばまだ今日(9月30日)も咲いていたなあ。

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二百十日(にひゃくとおか)

 
二百十日(にひゃくとおか)、もうこの言葉をどれだけの人が知っているだろう。

子どものころ、9月に入ると大人たちが時々この言葉を口にしていたのは覚えているが、最近では聞いたことがない。
雑節と言って、人日(じんじつ、七草の節句)、上巳(じょうし、桃の節句)、端午(たんご、菖蒲の節句)、七夕(しちせき、七夕の節句)、重陽(ちょうよう、菊の節句)の五節句に入らない季節用語で、「八十八夜」と同じように主に農業用語として古来使われてきた季節言葉。

「夏も近づく八十八夜・・・」という文部省唱歌も今は歌われているのかどうか知らないが、立春(2月4日ごろ)から数えて88日(5月2日ごろ)、霜もようやく降り収めいよいよ夏に移る節目の日で、茶摘み、苗代の籾播き、蚕のはきたてなど、新しい季節に備える縁起のいい日と言われてきた。八十八夜に積んだ一番茶は良質で不老長寿の「縁起物」と言われてきたのもその由縁。
   霜なくて曇る八十八夜かな    正岡子規
裏を返せば、この時期に強い霜が降ればせっかくの良茶も台無しになるから注意しなさいよという警句でもあったわけだ。

いっぽう、やはり立春から数えて「二百十日」(9月1日ころ)は凶日。
昔、伊勢の船乗りたちが長年の経験によって凶日と言い伝えてきた日で台風襲来の特異日とされ、奈良県大和神社で二百十日前3日に行う「風鎮祭」、富山県富山市の「おわら風の盆」など、農作物を風雨の被害から守るためにも、各地で風鎮めの儀式や祭が行われてきた日である。
統計的にはこの日近辺の台風襲来は少なく、8月下旬と9月中旬位が台風襲来のピークで、どちらかといえば台風来襲の端境期でもあるそうだ。この頃が稲の出穂期に当たり、強風が吹くと減収となる恐れがあるために注意を喚起する意味で言われ始めたのであろう。

ただ、個人的体験で今までで最も怖かった台風は、1950年9月3日徳島県に上陸し、淡路島を通って神戸市垂水に上陸したジェーン台風である。
記録では、最低気圧940hPa、最大風速50m/s、死者398人、行方不明141名、負傷者26,062名。神戸の測候所で風速40m/sまで観測できたが風力計が破損してそれ以上は計れなかったとか。途轍もない台風だった。
我が家でも、家が倒壊する恐れがあるからと筋向いの松下病院(今のパナソニックの附属病院)に避難したが、避難するべく綿帽子を被り家を出たとたん電柱から次の電柱まで吹き飛ばされ、警戒にあっていたお巡りさんにやっと助けられた。
避難所から見える我が家は見る見るうちに壁がそぎ落とされ、屋根瓦がむしり取られて木の葉のように飛んで行く。空には木の葉のように飛ぶ屋根瓦に混じって、畳1枚分はあろうかというブリキのトタンが何枚も空飛ぶ絨毯のように飛んで行く。まさに地獄絵図で今も鮮明に思い出す。
ちなみにもう一つ怖い思いをしたのは1961年9月16日室戸岬に上陸し、その日のうちに兵庫県尼崎市に上陸した第2室戸台風である。室戸岬上陸時にはなんと925hPa、瞬間最大風速は84.5m/s以上で風速計が振り切れて測定不能になったというからジェーン台風以上。当時通っていた高校の道沿いに並んでいた幹回り20cmはあろうかという柳の木が、雑巾のように捻じ曲げられて折れていたのにはびっくりした。
このように「二百十日」は現実だったわけだ。
だから子供のころ、逆にこの「二百十日」は待ち遠しかった。台風が近づけば学校が休校になるからだ。「二百十日」=休校、という等式は今も頭から消えないから、なんだか二百十日頃になると今でも少しワクワクする。

そういえば、関東大震災だって1923年(大正12年)9月1日だったし、夏目漱石にも『二百十日』というあまり知られていない中編小説がある。
華族や金持ちに反感を持つ圭さんとどちらかというとそちら側の碌さんという二人の青年の道行き小説だが、阿蘇山を旅行していてこの二百十日に嵐に出くわして道に迷い、碌さんが火溶石の流れた後のくぼみに落ちてしまってけがをするが、圭さんがやっとの思いで助け出し、そのれまでの口論はさておいて、また阿蘇登山に挑戦するという他愛無い話だが、漱石が「二百十日」にこだわったのが面白い。

今年(2016年)の「二百十日」は8月31日だったそうだから、こちら関西は幸いにも難を逃れたが、東北、北海道の方々はまさしく凶日になり、全くお気の毒としか言いようがない。
8月30日午後6時に岩手県大船渡市付近に上陸した台風10号は、そもそもが観測史上初めての太平洋側からの直撃台風で、北日本では所によって24時間雨量が8月の観測史上最大となるような記録的な大雨をもたらし、特に北海道と岩手県では河川の氾濫や浸水、土砂災害等による被害が相次ぎ、岩手県岩泉町の高齢者グループホームでは9人が死亡、また、岩手県内では岩泉町と久慈市で800人余りが孤立状態になったという。

皆さん、「二百十日」を覚えておいてください。私たちの先人が残してくれた大切な警句ですよ。

2016年の夏

 
今日はリオ・オリンピックの閉会式。8月3日から始まって8月21日までのおよそ3週間、世界はブラジル・リオに釘付けになった。
リオは南半球にあるから、日本でいえば冬なんだが、緯度も低いから気温は20℃前後。日本の秋よりも少し暖かめだろう。
しかし日本は、特にここ関西では連日35℃を超す暑さで、クーラー嫌いのぼくもさすがにクーラーは付けっ放しだ。

やはりオリンピックは素晴らしい。世界のトップアスリートが競い合う競技はどれも見ごたえがあり、それが日本のアスリートだともう他人事ではない。
内田航平くんが引っ張る体操が団体で金メダルを取ったときは鳥肌が立った。
柔道にレスリング、水泳にバドミントン、金メダルを取った選手諸君の活躍はもちろん素晴らしく、金メダルを取るたびに、自然とTwitterで「おめでとう」をつぶやいた。
しかし、特に事情に詳しいわけではないぼくには、やはりマスコミで常に取り上げられてきた選手の動向が気になった。
レスリングの吉田沙保里選手が負けた時にはこちらも涙が止まらなかったし、卓球の愛ちゃんが日本が銅メダルにとどまった責任を自分の責任だと慟哭したときにも涙が止まらなかった。
日本の女子レスリングを、日本の卓球人気を、ここまで引き上げてきた彼女たちの功績は計り知れない。
しかし競技は競技だ。勝ち負けははっきりしている。それまでの功績がどうのこうのではなく、相手が強ければ負ける。
吉田沙保里選手が負けてしばらくマットに伏せていた時の気持ちを思うと、こちらまで悔しくて打ちのめされた。
しかし、勝った相手のマル―リス選手と泣き顔で抱き合い、相手を称え合う姿は真のスポーツマン・シップを見た思いだ。(https://www.youtube.com/watch?v=H1alysW5nCQ

確かに気温は高く夏の区切りはないが、多くの感動を呼んだオリンピックも終わり、自分の夏休みも終わった今は、もう今年の夏は終わったも同然だ。
オリンピックの最中、孫の様子を見に東京へ。その合間を縫って、一度は訪ねたいと思っていた九十九里浜を訪ねたが、あいにくの台風来襲で、青々と広がるはずの太平洋は見られず、怒涛逆巻く砂交じりの荒波。
海水浴場に立つ監視台には遊泳禁止の赤旗がちぎれんばかりにはためいていた。
九十九里浜北端の犬吠埼では、灯台の立つ断崖絶壁の向こうにある岩に当たった波が砕け散り、さらに先には高さ10m以上にも及ぶかという大波が波頭立てて押し寄せる姿は、雄大を通り越してまさしく怒涛だ。
昔懐かしい醤油と磯の香をあてにさまよった銚子の町も台風接近で店を閉ざし、全国屈指の銚子漁港には避難船がびっしり。
残念ながら九十九里浜の旅は日常の姿ではなかった。

東京からの帰りは、もう何十年も前に訪れた伊豆半島を一周することにした。
東名高速の厚木インターからは快適な小田原厚木道路を通り、海岸沿いを走る真鶴道路を辿ると熱海に出る。熱海には昔、浄瑠璃の師匠をしていた大叔父夫妻が住んでいて時々行ったことがある。大きな大浴場があって混浴。晩になると高島田姿そのまんまの芸者さんが入浴していて、子供ながらに綺麗と思ったものだ。
熱海を南下すること1時間、熱川温泉近くに別荘を構える友人と落ち合って、徳造丸魚庵で名物金目鯛の煮つけ料理を満腹。
下田ではどの宿も満杯で、偶然電話を掛けたビジネスホテルが1室キャンセルが出たということでそこに泊まり、早朝はペリーゆかりの史蹟を辿る。
伊豆の踊子の宿、河津温泉。海水浴客でにぎわう弓ヶ浜海岸。さらに南下して、伊豆半島の先端石廊崎。ここは昔、同僚の先生方と訪れ、漁師宿で伊勢海老や鮑をたらふく食べた思い出がある。灯台も訪ねたかったが、車を降りての山歩きは暑さに耐えられず断念。
西海岸を辿って、堂ヶ島では海岸淵に立つ露天風呂で旅の垢を流し疲れをほぐす。大海原を前に見ての温泉はもう極楽。四畳半ほどの風呂は独り占め。
もう思い残すことはないと帰路に就いた次第である。

帰宅して翌日、旅の余韻は冷めやらず。奥吉野の大台ケ原を訪ねたくなり、寝袋と少々の食料品を車に積み込んで出発。国道169号を辿るが、昔、十津川温泉から新宮に抜けて勝浦温泉に行ったときには、雨が降れば土砂崩れ、道路の拡張工事で片道通行にぶつかると離合待ちで1時間待機はざら、そんな道だった。その後、大滝ダム建設時には、道路はもちろん、水没する村ごと高台に移転の大工事で迷路のような道を辿らねばならない難所だったが、今や紀伊半島を縦断する山岳道路にしては街中の道路よりはるかに快適。
大台ケ原は昔そのまんまだった。あいにくの雨だったが、1年365日のうち300日は雨が降るといわれるところだから仕方がない。正木が原の枯れ木風景も変わらず、散策道だけは昔よりよく整備されていた。
翌日は、大台ケ原の麓にある小処温泉を訪ねた。ここも昔は秘湯中の秘湯。大台ケ原登山を終えた山男だけが知る温泉だったが、今は道も整備され、さすがに車は少なく、というよりも出くわす車もなく辿り着く。
もちろんただ一軒の温泉だが、総檜造りに建て替えられ、これも秘湯の面影すらない。横を流れる川のせせらぎを聞きながらの一人風呂。

こうして2016年のぼくの夏はもう終わった。

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*リオ⇒東京
https://youtu.be/sk6uU8gb8PA

『玄冬の門』と『老いの才覚』

 
前回投稿した『冬構え』に触発されて、見出しの二冊の本を読んだ。
『玄冬の門』は五木寛之氏の著作で、『老いの才覚』は曽野綾子女史の著作である。
五木氏は1932年生まれで、曽野女史は1931年生まれ。『玄冬の門』は2016年6月20日発行で、『老いの才覚』は2010年9月20日発行だから、五木氏が84歳の著作なら、曽野女史は79歳の著作ということになるから若干のずれはあるが、いずれも後期高齢者での著作である。また、五木氏が『親鸞』の著作がある通り仏教に関心が強く、曽野女史は自らがクリスチャンである。これらの対比と、男性側からの老い、女性側からの老いのとらえ方を比較したいということでこの2作を選んだ。お二人とも著名な作家だが、その作品は読んだことがない。
本稿の目的は、作品紹介でもなく、内容紹介でもないから、二作の目次だけを掲げておくと、
まず、『玄冬の門』
第1章 未曽有の時代をどう生きるか
第2章 「孤独死」のすすめ
第3章 趣味としての養生
第4章 私の生命観
第5章 玄冬の門をくぐれば
他方、『老いの才覚』は、
第1章 なぜ老人は才覚を失ってしまったのか
第2章 老いの基本は「自立」と「自律」
第3章 人間が死ぬまで働かなくてはいかない
第4章 晩年になったら夫婦や親子の付き合い方も変える
第5章 一文無しになってもお金に困らない生き方
第6章 孤独と付き合い、人生をおもしろがるコツ
第7章 老い、病気、死と慣れ親しむ
第8章 神様の視点を持てば、人生と世界が理解できる
ということになるが、この目次からだけでもお二方の特徴がにじみ出ていると思えるがどうだろうか。
哲学的な表現になって申し訳ないが、読んだ感想を端的に申せば、
『玄冬の門』は「存在」(あること、あらざるをえないこと、英語で表せばBe)に、『老いの才覚』は「当為」(あるべきこと、なすべきこと、英語で表せばought)に重点を置いた著作に思えた。
男女を問わず、人間、生きてきた環境により人格、考え方の大半が形作られると思うが、時間・空間の形式を制約する感性を介した経験によっては認識できない、超自然的、理念的な世界、形而上の世界では男女とも共通項はあっても、その反対に、感性を介した経験によって認識できる、時間・空間を基礎的形式とする現象世界、形而下の世界では男女には深い溝があり、死生観にもはっきり表れてくる気がし、この二作にもそれを感じた。
原始、人間は、女は子供を産み、男は戦う・狩猟をすることが形而下、つまり現実の世界を形成したであろうし、今も本質のところは変わりはないだろう。人間である限り、他の動物と違って形而上の世界、つまり頭の世界では男女共有している部分が多いに違いない。
ちょっと念仏の様な話になってしまったが、死は孤独と絶望の果てにあるもの、生は認識なく誕生するが、死は認識して訪れるものである。その死にどう対処すべきか。
五木氏は、昔、アフリカの動物たちが死期を感じると群れから離れ行方不明になるという話を聞いてあこがれたという。仏陀の最後、親鸞の教え、鴨長明の生き方、それらを通して、肉体としての自分は消えてなくなるけれど、大きな生命の循環の中に、「大河の一滴」となって海に帰ると言い聞かせることで「孤独死」も結構ではないかと自分に言い聞かせている。
曽野女史は、『神われらと共に』というブラジルの詩人の詩を紹介して、
夢の中で、クリスマスの夜、主と二人で浜辺を歩んでいた。その足跡の一足一足が自分の生涯を示している。ふと振り返ってその足跡を見てみると、所々に二人の足跡ではなく一人だけのところがある。それは生涯でいちばん暗かった日々に符合する。主に、どうしてそのとき自分と共に歩んで下さらなかったのかと詰問すると、主は「友よ、砂の上に一人の足跡しか見えない日、それは私があなたをおぶって歩いた日なのだよ」
女史には神と共に召される安堵がある。

五木氏は「玄冬の門をくぐれば、それまでの人生のあらゆる絆を断ち切り、そして、孤独の楽しみを発見する。そこに広がる軽やかで自由な境地を満喫するために」孤独死を勧め、
曽野女史は「老年の仕事は孤独に耐えること。孤独だけがもたらす時間の中で自分を発見する。自分がどういう人間で、どういうふうに生きて、それにはどいう意味があったのか。それを発見して死ぬのが、人生の目的」と死の合目的性を強調する。
お二人とも「孤独死」の美学を展開するが、人生はそして死は決して美学だけでは語れない。
介護に疲れた夫が妻を殺害し、妻が夫を殺害する。訪ねてみれば餓死して数か月。そんなニュースが後を絶たず、そこまでに至らなくてもそれに近い老人は日本国中に溢れている。
そこには確かに孤独と絶望があるが、誰が好き好んでそんな境遇を求めようか。ここに紹介したお二人のように、功成り名遂げ、金銭的にも物質的の何不自由ない生活を送れる人の孤独と絶望は、明日に生きるだけの食は確保し、精一杯の身繕いがせいぜいの人たちの孤独と絶望とは全く異次元なのである。
「姥捨て山」の現実は今も昔も本質は変わらない。ただ変わったのは、あばら家ではあっても、食は乏しくても、夫婦と子供そしておじいさんとおばあさんが共に暮らし、最後はすすんで姥捨て山にという時代の生活と、娘や息子夫婦とは別居、金庫に死に金をしこたま蓄えたおじいさんおばあさんがいるかと思えば、一緒に暮らしたくとも住宅事情、経済事情でそうはいかなく、頼りになるのは足腰もままならない別居老夫婦もしくは一人老人の、最後には特別養護老人ホームにという現代の生活の違いである。
作家のお二人のように好んでまでとは言わないが、孤独と孤独死に人生の最後を迎えようとする人もいて結構。しかし、多くは二世代、三世代の家族とともに老後を楽しみ助け合って最期を迎えたい老人も多くいるだろうし、それがむしろ理想のように思えるがいかがであろう。

仕方なく孤独に耐え、孤独死を望まざるを得ない現代社会の貧困とそれに甘んじている諦観がありはしませんか。それじゃあ、『楢山節考』の時代と少しも進歩していないじゃありませんか。
慣れ切っている社会。今の常識を疑わない社会。何となく不満はあるがしょうがないと諦めている社会。そんな社会になってはいませんか。
『冬構え』の岡田老人を見ていて、身につまされるだけにとどまっていてはいけないと思います。
理想的な老人の生き方と死に方、家族と老人、老人と社会、子供たちの問題と老人の問題をもっともっと真剣に考えなければならないし、それが社会発展と豊かさの実現にきっとつながると思います。

冬構え

 
NHKアーカイブで『冬構え』を観た。

6年前に妻を亡くした主人公の岡田圭作(笠 智衆)はもうすぐ80才を迎える。いつかは妻と一緒にと思っていた晩秋の東北地方の旅を思い立ち、全財産を現金に替えて旅に出る。

東北新幹線古川駅を降りた岡田は、タクシーの運転手(せんだ みつお)に紹介された鳴子温泉に最初の宿をとる。最後の大名旅行を気取りたい岡田は、そこの若い仲居(岸本加代子)に気前よく2万円のチップを渡す。1万5千円の宿賃に2万円のチップをはずむ岡田に興味を持った仲居は、就寝の世話に入った部屋の金庫にある札束に行天。常々店を持ちたいと思っている恋人の板前(金田賢一)にこの老人に資金援助を頼もうかと持ち掛けるが、律儀な板前はそんなことには耳を貸さない。翌朝、岡田は次の目的地に旅立つ。

平泉では、陰に陽に自分に付きまとう上品な夫人(沢村貞子)が気になり声をかけると、明日は盛岡で落ち合うが、好き勝手にに生きてきた夫と今日は別れての一人旅だという。部屋を共にするも、亭主持ちを打ち明けられては心が揺らぐだけ。お互いに思いを秘めたままの夜は静かに更けていった。

岡田の一人旅は続く。盛岡から宮古へ。陸中海岸では、遊覧船に乗り、群れるカモメにしばし時を忘れはするが、はしゃぐ観光客には気も向かない。その後訪れた目もくらむような断崖絶壁では立ちすくみ、諦めるかのようにそこを立ち去る。

一方、厨房でのいさかいで職を辞した板前と金満老人を諦めきれない仲居は、タクシー運転手から岡田が宮古に向かったことを聞き、後を追う。そして偶然にも、断崖絶壁から帰ってきた岡田と出会い、同じ宿に泊まることになる。
若い二人は、岡田と宿の夕食を共にしながら、板前の故郷八戸に戻って店を持つ夢を語る。翌朝、若い二人の宿賃も払ってやってタクシーに乗り込んだ岡田は、見送りに出てきた二人に、新聞紙に包んだ150万円を無理やり手渡して去っていく。

八戸に着いた岡田は、ガンで入院中のかつての同僚(小沢栄太郎)を訪ねる。
積もる話の中、「すべての貯金を引き出して、一人で旅を続けている。金がなくなったらそれでいいんだ」と話す岡田に死の覚悟を見抜いた同僚は、「そんなことをしてはいけない」と諭すが、岡田は「当たり前のことを言わんでくれ」、「自分には孫が7人。私の誕生日に子供たちと孫が大勢我家にやってきてくれた。そして皆がバイバイと言ってご機嫌で帰って行った。でも私が老いて病気になり、子供たちのだれかの家に世話になるようになったら、そんな訳にはいかなくなるだろう。子供たちの家をたらい回しにされるかもしれない。しかしそのことで子供たちを恨むようにはなりたくない」と。

恐山にやってきた岡田は遺書をカバンに用意する。
「私はこの旅先で、どのようなことになろうと、娘や息子達に何の責任もないことをしかと書き残します。子供たち、孫たちは本当にようしてくれました。そして、いかなる意味でも、誰かをも恨んだり悲しんだりして、死を危ぶむものでないことを書き置きます。私は、こうした書き置きを残せる幸せを感じております。この折を逃せば、まもなく更に衰え、自らの死を決する力を失ってしまうでしょう。体や病気の命ずるままに、死を迎える他はないでしょう。私は、今までの人生を微力ながら自ら選んで生きてきたつもりです。できるなら、生き方同様、死に方も選びたい。もとより、そのような考えは、若い時なら、傲慢、神をも恐れぬ、命の貴さを知らぬ、・・・ですが、齢(よわい)80にならんとする今なら、わずかに許されるように思います。死ぬまでの何年かを病院で、あるいは子供の家で、まるで廃人のように生きなければならないかもしれないということに、恐怖を感じております。贅沢かもしれませんが、良い爺さんのままこの世を去りたいという願いを消すことができません。これは私のわがままであります。」
そして近くの絶壁から海に身を投げようとするも、足が滑ってしまい怪我をした程度で、ここでも死にきれなくて薬研温泉にたどり着く。

150万円の大金を渡された若い二人は、「お金持ちという割には履いている靴が安ものだし、着ている背広もたいしたものではない」ことが気になり、覚悟の旅ではないかと思い岡田の後を追う。そして死にそびれた岡田が投宿している薬研温泉のホテルを探し当てる。
「この金は受け取れません」と板前は、新聞紙に包んだままの150万円を返そうと差し出し、「あなたは死のうとしているのでは?」と問うと、岡田は「そうじゃーない」と一言。「金の渡し方については大変失敬した。改めてこの金は君たちに無利息、出世払いの条件で貸すから証文を書いてくれ。」といってそのままお金を若い二人に預ける。
その夜、一人になった岡田はままならない人生に泣き崩れる。

何とか岡田を助けたい二人は、板前の生まれた八戸近くの寒村に連れて行く。その家には「じっちゃん」(藤原釜足)だけしかいなくて、家族は全員が青森に出稼ぎに出ていて家に帰ってくる様子もない。
板前はじっちゃんに、自分が話しても聞いてもくれないだろうから、「死んではいけない。人間生きてることが一番だ」と岡田に諭してくれるように頼む。
翌日、若い二人が海岸に出かけた折、客が来てもろくに口もきかない朴訥なじっちゃんが、突然岡田をお茶に呼ぶ。
「孫があんたに言えという。人間、生きているのが一番だと言えと・・。そうしたことは言えねえ。ワシには人間生きていくのが一番なんて、そうした事は言えねえ。」
「しかし死ぬのもなかなか容易じゃなくて・・」
「んだ。容易じゃねえ」
「どんだ?少しここさ居てみねえか?こう見えても気心知れてくれば結構しゃべるだ・・・」
ふたりはしばらくじっと見つめあい、めったに笑ったこともないじっちゃんがうふふと笑う。岡田の顔にも笑みがこぼれ、吹っ切れたような表情が浮かんでくる。

長々と書き綴ったが、1985年に放映されたこのドラマをこの歳になってまた観てみると、当時とはまるで違った感懐に襲われ、身につまされる思いだ。観ていないご同輩にはぜひ観ていただきたいが、そうもいかない方の為に、せめてあらすじだけでもとこんなに長く書き綴ったしまった。ダイジェスト版ならここ。想いを同じくするご同輩も多いだろう。
つい一昨日(2016年6月29日)も、総務省が2015年に実施したの国勢調査の抽出速報集計結果を発表したが、それによると、総人口に占める65歳以上人口の割合が調査開始以来最高となる26.7%で、初めて総人口の4分の1を超えたという。またその数は全県で15歳未満の人口を超えたともある。超高齢化社会に突入したわけだ。
介護に疲れた夫が妻を殺害したとか、逆に妻が夫を殺害したという痛ましいニュースが最近後を絶たないが、これに近い状況で今日も悪戦苦闘している高齢者は全国に巨万(ごまん)といるだろう。
1985年といえば、その2年前の1983年、緒方拳と坂本スミ子主演の『楢山節考』がカンヌ映画祭で最高賞の『パルム・ドール』を受賞し、日本中が沸き立った。
それは単に作品の良さが評価されたからだけではなく、さほど遠くない将来に「姥捨て山」が現実になるかもしれないという予感を感じたからだし、世界にも共通認識があることを知ったからに他ならない。
この『冬構え』もそれに触発されての山田太一作品であるが、30年後の今、まさしく現実になった。
岡田老人の言うように、自らの死を決する力を失ってしまう前に、微力ながら自ら選んで生きてきた生き方と同様、死に方も選びたい、贅沢かもしれないが、よい爺さん婆さんのまま世を去りたいと願う人は多いだろう。しかし、これもまた岡田老人と同じで、死もままならないのが現実だ。
しばらく瞑想にふけるとするか。

ハーバードでいちばん人気の国・日本

 
『ハーバードでいちばん人気の国・日本』-なぜ世界最高の知性はこの国に魅了されるのか―
という本を読んだ。

1990年11月頃から始まったバブルの崩壊は、年平均賃金のピークが1997年なら、名目GDP(国内総生産)のピークも97年であるから、この1997年がピークで、爾来、日本経済は失われた10年といい、いつの間にか20年になり、今や25年に及ぼうとしている。
その間、何とか体勢を立て直そうとした矢先に起こった2008年9月15日のリーマンショック、さらには2011年3月11日に起こった東北大震災とそれに伴う福島第1原発事故は、もう泣き面に蜂どころではなかった。
国際通貨基金(IMF)によれば、2009年には中国に抜かれて世界第2の経済大国の地位をゆずり、14年には名目GDPで中国の半分になってしまうという始末。
国土全体が灰燼に帰した第二次世界大戦後から70年、奇跡の復興からバブルの崩壊とその後の低迷まで、琵琶法師が弾き語る『平家物語』がどこかから聞こえてくるような気さえする。

その日本が、世界最高峰の学び舎ハーバード大学の経営大学院で今いちばん人気のある国として紹介されているのがこの本の内容である。
著者は米コロンビア大学MBA(経営学修士)ホルダーの佐藤智恵氏。
ハーバード大学経営大学院では一学年約900人、二学年合わせて約1800人の学生が学んでいて、その多くが、いわゆる各国の要人の子女、富裕層の子女で、卒業後、各国の政財界で要職に就き、世界に大きな影響をもたらす人たちになるという。
その一年生が、毎年春になると研修旅行に参加するのが通例になっていて、行き先は、インド、イスラエル、イタリアなど約10ヶ国。その中でいちばん人気があるのが日本で、参加者募集をするや否やわずか数分で定員100名が埋まってしまうほどの人気だそうだ。
日本が人気を集めているのは研修旅行だけではなく、授業でも日本のCase Study(事例研究)は評価が高いという。
中でも、テッセイ(TESSEI;JR東日本テクノハート)の事例はすごい人気で、大学院でも企業幹部向けのコースで使われ、日本の企業文化とそのバックボーンになっている日本人の特質及び文化が集約されていて、絶好の教材になっているそうだ。
TESSEIは、皆さんもご存じだろうが、華やかな衣装に身を包んだ従業員が、わずか7分という短時間で停車中の新幹線の全車両とトイレの清掃を終わらせ、しかもそれだけではない、清掃後、従業員全員が黙礼してお客を向かえ入れるあの光景、海外でも「新幹線お掃除劇場」(Shinkansen Cleaning Theater)として絶賛紹介されているあれだ。
その他、世界が絶賛したトヨタの奇跡のマネジメント、アメリカより120年も前に先物市場をつくった日本の先駆性、明治維新と岩崎弥太郎のこと、日本人の持つ無私の精神とあくなき探求心、なぜハーバードの教員も学生も日本に魅せられ、何を学び取ろうとしているのかが熱く紹介されている。
そして最後に、日本はとてつもない力を秘めている。それは人的資本であり、日本の強みは日本人そのものだという。
⓵ OECD24か国の中でも突出した高い教育水準(今だけではない、フランシスコ・ザビエルも驚いたくらい昔から)
⓶ 自動車産業における日本人の分析的な特性
⓷ アップルのスティーブ・ジョブズが大いに影響を受けた日本人の美意識、美的センス
⓸ 人を大切にするマインドと改善の精神
⓹ 日本の風土から生まれた環境意識と自然観
⓺ 金儲けより公益を優先する社会意識
不確実性の時代を生き抜くための指針として、世界はいま一度日本から学ぶべし。そして同時に日本がこれから世界をどうリードするかを考えるヒントにもなるはずと、
いつのまにか、琵琶の音に合わせて踊りだしたくなってくる。

わたしの城下町

 
♪♪♪ わたしの城下町 ♪♪♪

心に嫌な思いがあったり、疲れていたり、日常生活に埋没して自分を忘れていたりしたとき、この曲を耳にするとふっと我に返り、心の自浄作用が始まる。

1971年、元ロカビリー歌手だった平尾昌晃が作曲したこの曲は、新進歌手小柳ルミ子によって歌われ、たちまち160万枚の大ヒット。オリコン(オリコンリサーチ株式会社が発表する音楽・映像ソフトなどの売り上げを集計したランキング)連続12週第1位はいまだに破られていないそうだ。
華麗にして数奇な運命をたどった安井かずみに作詞を依頼したディレクターが飛騨高山城のイメージを伝え、それに安井が京都先斗町の格子戸のイメージを重ね合わせてできた詩に、当時結核で信州諏訪湖畔で療養していた平尾が、同じく高山城をイメージしながら作曲して生まれたのがこの『わたしの城下町』であるという。

今ここで聞く『わたしの城下町』も小柳ルミ子のデビュー当時のもので、清純で可憐、透き通るような伸びやかな声、そして詩と曲が相まって、前奏が始まるや否や、もうかれこれ半世紀前の世界に自分をいざなう。
別世界なのだ。身や心に堆積した垢や何もかもがスーッと落ちていく。
人間、半世紀の間には得たものもたくさんあるが、失ったものもたくさんある。それらすべてが消えていくのだ。
歌手小柳ルミ子のその後の波乱に満ちた生き様を知るにつけ、歌う『わたしの城下町』も違って聞こえる。
紅白歌合戦や何かの折に耳にする『わたしの城下町』も年とともに変化し、ベテランの域に達して歌うその歌には円熟した味があって、いい歌はいい歌だ。でも、違う。
聞きたいのはやはり最初の『わたしの城下町』なのである。

人にはそれぞれに「心の城下町」がある。
それは、立派な天守閣がそびえるお城かもしれないし、石垣だけが残るお城かもしれない。
はたまた、人知れず訪れた近くの川や公園、お寺や廃屋かもしれない。
初恋に心が燃え、そのもどかしさに耐えきれず訪れた場所ならばなおさらだ。

格子戸、夕焼けの空、子守歌、お寺の鐘、四季の花々、橋のたもとにともる灯り、
どの言葉も心に染み、その澄み切った歌声からは、もう二度と帰ることができない世界が広がるから不思議だ。

梅雨も間近。今日も薄日は差すものの、向こうには大きな雨雲が広がりつつある。
テレビを見ても、毎日毎日、嫌なニュースが繰り返されている。
こんなときこそ、『わたしの城下町』を聞くと、ほんとうにホッとする。