二百十日(にひゃくとおか)

 
二百十日(にひゃくとおか)、もうこの言葉をどれだけの人が知っているだろう。

子どものころ、9月に入ると大人たちが時々この言葉を口にしていたのは覚えているが、最近では聞いたことがない。
雑節と言って、人日(じんじつ、七草の節句)、上巳(じょうし、桃の節句)、端午(たんご、菖蒲の節句)、七夕(しちせき、七夕の節句)、重陽(ちょうよう、菊の節句)の五節句に入らない季節用語で、「八十八夜」と同じように主に農業用語として古来使われてきた季節言葉。

「夏も近づく八十八夜・・・」という文部省唱歌も今は歌われているのかどうか知らないが、立春(2月4日ごろ)から数えて88日(5月2日ごろ)、霜もようやく降り収めいよいよ夏に移る節目の日で、茶摘み、苗代の籾播き、蚕のはきたてなど、新しい季節に備える縁起のいい日と言われてきた。八十八夜に積んだ一番茶は良質で不老長寿の「縁起物」と言われてきたのもその由縁。
   霜なくて曇る八十八夜かな    正岡子規
裏を返せば、この時期に強い霜が降ればせっかくの良茶も台無しになるから注意しなさいよという警句でもあったわけだ。

いっぽう、やはり立春から数えて「二百十日」(9月1日ころ)は凶日。
昔、伊勢の船乗りたちが長年の経験によって凶日と言い伝えてきた日で台風襲来の特異日とされ、奈良県大和神社で二百十日前3日に行う「風鎮祭」、富山県富山市の「おわら風の盆」など、農作物を風雨の被害から守るためにも、各地で風鎮めの儀式や祭が行われてきた日である。
統計的にはこの日近辺の台風襲来は少なく、8月下旬と9月中旬位が台風襲来のピークで、どちらかといえば台風来襲の端境期でもあるそうだ。この頃が稲の出穂期に当たり、強風が吹くと減収となる恐れがあるために注意を喚起する意味で言われ始めたのであろう。

ただ、個人的体験で今までで最も怖かった台風は、1950年9月3日徳島県に上陸し、淡路島を通って神戸市垂水に上陸したジェーン台風である。
記録では、最低気圧940hPa、最大風速50m/s、死者398人、行方不明141名、負傷者26,062名。神戸の測候所で風速40m/sまで観測できたが風力計が破損してそれ以上は計れなかったとか。途轍もない台風だった。
我が家でも、家が倒壊する恐れがあるからと筋向いの松下病院(今のパナソニックの附属病院)に避難したが、避難するべく綿帽子を被り家を出たとたん電柱から次の電柱まで吹き飛ばされ、警戒にあっていたお巡りさんにやっと助けられた。
避難所から見える我が家は見る見るうちに壁がそぎ落とされ、屋根瓦がむしり取られて木の葉のように飛んで行く。空には木の葉のように飛ぶ屋根瓦に混じって、畳1枚分はあろうかというブリキのトタンが何枚も空飛ぶ絨毯のように飛んで行く。まさに地獄絵図で今も鮮明に思い出す。
ちなみにもう一つ怖い思いをしたのは1961年9月16日室戸岬に上陸し、その日のうちに兵庫県尼崎市に上陸した第2室戸台風である。室戸岬上陸時にはなんと925hPa、瞬間最大風速は84.5m/s以上で風速計が振り切れて測定不能になったというからジェーン台風以上。当時通っていた高校の道沿いに並んでいた幹回り20cmはあろうかという柳の木が、雑巾のように捻じ曲げられて折れていたのにはびっくりした。
このように「二百十日」は現実だったわけだ。
だから子供のころ、逆にこの「二百十日」は待ち遠しかった。台風が近づけば学校が休校になるからだ。「二百十日」=休校、という等式は今も頭から消えないから、なんだか二百十日頃になると今でも少しワクワクする。

そういえば、関東大震災だって1923年(大正12年)9月1日だったし、夏目漱石にも『二百十日』というあまり知られていない中編小説がある。
華族や金持ちに反感を持つ圭さんとどちらかというとそちら側の碌さんという二人の青年の道行き小説だが、阿蘇山を旅行していてこの二百十日に嵐に出くわして道に迷い、碌さんが火溶石の流れた後のくぼみに落ちてしまってけがをするが、圭さんがやっとの思いで助け出し、そのれまでの口論はさておいて、また阿蘇登山に挑戦するという他愛無い話だが、漱石が「二百十日」にこだわったのが面白い。

今年(2016年)の「二百十日」は8月31日だったそうだから、こちら関西は幸いにも難を逃れたが、東北、北海道の方々はまさしく凶日になり、全くお気の毒としか言いようがない。
8月30日午後6時に岩手県大船渡市付近に上陸した台風10号は、そもそもが観測史上初めての太平洋側からの直撃台風で、北日本では所によって24時間雨量が8月の観測史上最大となるような記録的な大雨をもたらし、特に北海道と岩手県では河川の氾濫や浸水、土砂災害等による被害が相次ぎ、岩手県岩泉町の高齢者グループホームでは9人が死亡、また、岩手県内では岩泉町と久慈市で800人余りが孤立状態になったという。

皆さん、「二百十日」を覚えておいてください。私たちの先人が残してくれた大切な警句ですよ。

2016年の夏

 
今日はリオ・オリンピックの閉会式。8月3日から始まって8月21日までのおよそ3週間、世界はブラジル・リオに釘付けになった。
リオは南半球にあるから、日本でいえば冬なんだが、緯度も低いから気温は20℃前後。日本の秋よりも少し暖かめだろう。
しかし日本は、特にここ関西では連日35℃を超す暑さで、クーラー嫌いのぼくもさすがにクーラーは付けっ放しだ。

やはりオリンピックは素晴らしい。世界のトップアスリートが競い合う競技はどれも見ごたえがあり、それが日本のアスリートだともう他人事ではない。
内田航平くんが引っ張る体操が団体で金メダルを取ったときは鳥肌が立った。
柔道にレスリング、水泳にバドミントン、金メダルを取った選手諸君の活躍はもちろん素晴らしく、金メダルを取るたびに、自然とTwitterで「おめでとう」をつぶやいた。
しかし、特に事情に詳しいわけではないぼくには、やはりマスコミで常に取り上げられてきた選手の動向が気になった。
レスリングの吉田沙保里選手が負けた時にはこちらも涙が止まらなかったし、卓球の愛ちゃんが日本が銅メダルにとどまった責任を自分の責任だと慟哭したときにも涙が止まらなかった。
日本の女子レスリングを、日本の卓球人気を、ここまで引き上げてきた彼女たちの功績は計り知れない。
しかし競技は競技だ。勝ち負けははっきりしている。それまでの功績がどうのこうのではなく、相手が強ければ負ける。
吉田沙保里選手が負けてしばらくマットに伏せていた時の気持ちを思うと、こちらまで悔しくて打ちのめされた。
しかし、勝った相手のマル―リス選手と泣き顔で抱き合い、相手を称え合う姿は真のスポーツマン・シップを見た思いだ。(https://www.youtube.com/watch?v=H1alysW5nCQ

確かに気温は高く夏の区切りはないが、多くの感動を呼んだオリンピックも終わり、自分の夏休みも終わった今は、もう今年の夏は終わったも同然だ。
オリンピックの最中、孫の様子を見に東京へ。その合間を縫って、一度は訪ねたいと思っていた九十九里浜を訪ねたが、あいにくの台風来襲で、青々と広がるはずの太平洋は見られず、怒涛逆巻く砂交じりの荒波。
海水浴場に立つ監視台には遊泳禁止の赤旗がちぎれんばかりにはためいていた。
九十九里浜北端の犬吠埼では、灯台の立つ断崖絶壁の向こうにある岩に当たった波が砕け散り、さらに先には高さ10m以上にも及ぶかという大波が波頭立てて押し寄せる姿は、雄大を通り越してまさしく怒涛だ。
昔懐かしい醤油と磯の香をあてにさまよった銚子の町も台風接近で店を閉ざし、全国屈指の銚子漁港には避難船がびっしり。
残念ながら九十九里浜の旅は日常の姿ではなかった。

東京からの帰りは、もう何十年も前に訪れた伊豆半島を一周することにした。
東名高速の厚木インターからは快適な小田原厚木道路を通り、海岸沿いを走る真鶴道路を辿ると熱海に出る。熱海には昔、浄瑠璃の師匠をしていた大叔父夫妻が住んでいて時々行ったことがある。大きな大浴場があって混浴。晩になると高島田姿そのまんまの芸者さんが入浴していて、子供ながらに綺麗と思ったものだ。
熱海を南下すること1時間、熱川温泉近くに別荘を構える友人と落ち合って、徳造丸魚庵で名物金目鯛の煮つけ料理を満腹。
下田ではどの宿も満杯で、偶然電話を掛けたビジネスホテルが1室キャンセルが出たということでそこに泊まり、早朝はペリーゆかりの史蹟を辿る。
伊豆の踊子の宿、河津温泉。海水浴客でにぎわう弓ヶ浜海岸。さらに南下して、伊豆半島の先端石廊崎。ここは昔、同僚の先生方と訪れ、漁師宿で伊勢海老や鮑をたらふく食べた思い出がある。灯台も訪ねたかったが、車を降りての山歩きは暑さに耐えられず断念。
西海岸を辿って、堂ヶ島では海岸淵に立つ露天風呂で旅の垢を流し疲れをほぐす。大海原を前に見ての温泉はもう極楽。四畳半ほどの風呂は独り占め。
もう思い残すことはないと帰路に就いた次第である。

帰宅して翌日、旅の余韻は冷めやらず。奥吉野の大台ケ原を訪ねたくなり、寝袋と少々の食料品を車に積み込んで出発。国道169号を辿るが、昔、十津川温泉から新宮に抜けて勝浦温泉に行ったときには、雨が降れば土砂崩れ、道路の拡張工事で片道通行にぶつかると離合待ちで1時間待機はざら、そんな道だった。その後、大滝ダム建設時には、道路はもちろん、水没する村ごと高台に移転の大工事で迷路のような道を辿らねばならない難所だったが、今や紀伊半島を縦断する山岳道路にしては街中の道路よりはるかに快適。
大台ケ原は昔そのまんまだった。あいにくの雨だったが、1年365日のうち300日は雨が降るといわれるところだから仕方がない。正木が原の枯れ木風景も変わらず、散策道だけは昔よりよく整備されていた。
翌日は、大台ケ原の麓にある小処温泉を訪ねた。ここも昔は秘湯中の秘湯。大台ケ原登山を終えた山男だけが知る温泉だったが、今は道も整備され、さすがに車は少なく、というよりも出くわす車もなく辿り着く。
もちろんただ一軒の温泉だが、総檜造りに建て替えられ、これも秘湯の面影すらない。横を流れる川のせせらぎを聞きながらの一人風呂。

こうして2016年のぼくの夏はもう終わった。

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*リオ⇒東京
https://youtu.be/sk6uU8gb8PA

『玄冬の門』と『老いの才覚』

 
前回投稿した『冬構え』に触発されて、見出しの二冊の本を読んだ。
『玄冬の門』は五木寛之氏の著作で、『老いの才覚』は曽野綾子女史の著作である。
五木氏は1932年生まれで、曽野女史は1931年生まれ。『玄冬の門』は2016年6月20日発行で、『老いの才覚』は2010年9月20日発行だから、五木氏が84歳の著作なら、曽野女史は79歳の著作ということになるから若干のずれはあるが、いずれも後期高齢者での著作である。また、五木氏が『親鸞』の著作がある通り仏教に関心が強く、曽野女史は自らがクリスチャンである。これらの対比と、男性側からの老い、女性側からの老いのとらえ方を比較したいということでこの2作を選んだ。お二人とも著名な作家だが、その作品は読んだことがない。
本稿の目的は、作品紹介でもなく、内容紹介でもないから、二作の目次だけを掲げておくと、
まず、『玄冬の門』
第1章 未曽有の時代をどう生きるか
第2章 「孤独死」のすすめ
第3章 趣味としての養生
第4章 私の生命観
第5章 玄冬の門をくぐれば
他方、『老いの才覚』は、
第1章 なぜ老人は才覚を失ってしまったのか
第2章 老いの基本は「自立」と「自律」
第3章 人間が死ぬまで働かなくてはいかない
第4章 晩年になったら夫婦や親子の付き合い方も変える
第5章 一文無しになってもお金に困らない生き方
第6章 孤独と付き合い、人生をおもしろがるコツ
第7章 老い、病気、死と慣れ親しむ
第8章 神様の視点を持てば、人生と世界が理解できる
ということになるが、この目次からだけでもお二方の特徴がにじみ出ていると思えるがどうだろうか。
哲学的な表現になって申し訳ないが、読んだ感想を端的に申せば、
『玄冬の門』は「存在」(あること、あらざるをえないこと、英語で表せばBe)に、『老いの才覚』は「当為」(あるべきこと、なすべきこと、英語で表せばought)に重点を置いた著作に思えた。
男女を問わず、人間、生きてきた環境により人格、考え方の大半が形作られると思うが、時間・空間の形式を制約する感性を介した経験によっては認識できない、超自然的、理念的な世界、形而上の世界では男女とも共通項はあっても、その反対に、感性を介した経験によって認識できる、時間・空間を基礎的形式とする現象世界、形而下の世界では男女には深い溝があり、死生観にもはっきり表れてくる気がし、この二作にもそれを感じた。
原始、人間は、女は子供を産み、男は戦う・狩猟をすることが形而下、つまり現実の世界を形成したであろうし、今も本質のところは変わりはないだろう。人間である限り、他の動物と違って形而上の世界、つまり頭の世界では男女共有している部分が多いに違いない。
ちょっと念仏の様な話になってしまったが、死は孤独と絶望の果てにあるもの、生は認識なく誕生するが、死は認識して訪れるものである。その死にどう対処すべきか。
五木氏は、昔、アフリカの動物たちが死期を感じると群れから離れ行方不明になるという話を聞いてあこがれたという。仏陀の最後、親鸞の教え、鴨長明の生き方、それらを通して、肉体としての自分は消えてなくなるけれど、大きな生命の循環の中に、「大河の一滴」となって海に帰ると言い聞かせることで「孤独死」も結構ではないかと自分に言い聞かせている。
曽野女史は、『神われらと共に』というブラジルの詩人の詩を紹介して、
夢の中で、クリスマスの夜、主と二人で浜辺を歩んでいた。その足跡の一足一足が自分の生涯を示している。ふと振り返ってその足跡を見てみると、所々に二人の足跡ではなく一人だけのところがある。それは生涯でいちばん暗かった日々に符合する。主に、どうしてそのとき自分と共に歩んで下さらなかったのかと詰問すると、主は「友よ、砂の上に一人の足跡しか見えない日、それは私があなたをおぶって歩いた日なのだよ」
女史には神と共に召される安堵がある。

五木氏は「玄冬の門をくぐれば、それまでの人生のあらゆる絆を断ち切り、そして、孤独の楽しみを発見する。そこに広がる軽やかで自由な境地を満喫するために」孤独死を勧め、
曽野女史は「老年の仕事は孤独に耐えること。孤独だけがもたらす時間の中で自分を発見する。自分がどういう人間で、どういうふうに生きて、それにはどいう意味があったのか。それを発見して死ぬのが、人生の目的」と死の合目的性を強調する。
お二人とも「孤独死」の美学を展開するが、人生はそして死は決して美学だけでは語れない。
介護に疲れた夫が妻を殺害し、妻が夫を殺害する。訪ねてみれば餓死して数か月。そんなニュースが後を絶たず、そこまでに至らなくてもそれに近い老人は日本国中に溢れている。
そこには確かに孤独と絶望があるが、誰が好き好んでそんな境遇を求めようか。ここに紹介したお二人のように、功成り名遂げ、金銭的にも物質的の何不自由ない生活を送れる人の孤独と絶望は、明日に生きるだけの食は確保し、精一杯の身繕いがせいぜいの人たちの孤独と絶望とは全く異次元なのである。
「姥捨て山」の現実は今も昔も本質は変わらない。ただ変わったのは、あばら家ではあっても、食は乏しくても、夫婦と子供そしておじいさんとおばあさんが共に暮らし、最後はすすんで姥捨て山にという時代の生活と、娘や息子夫婦とは別居、金庫に死に金をしこたま蓄えたおじいさんおばあさんがいるかと思えば、一緒に暮らしたくとも住宅事情、経済事情でそうはいかなく、頼りになるのは足腰もままならない別居老夫婦もしくは一人老人の、最後には特別養護老人ホームにという現代の生活の違いである。
作家のお二人のように好んでまでとは言わないが、孤独と孤独死に人生の最後を迎えようとする人もいて結構。しかし、多くは二世代、三世代の家族とともに老後を楽しみ助け合って最期を迎えたい老人も多くいるだろうし、それがむしろ理想のように思えるがいかがであろう。

仕方なく孤独に耐え、孤独死を望まざるを得ない現代社会の貧困とそれに甘んじている諦観がありはしませんか。それじゃあ、『楢山節考』の時代と少しも進歩していないじゃありませんか。
慣れ切っている社会。今の常識を疑わない社会。何となく不満はあるがしょうがないと諦めている社会。そんな社会になってはいませんか。
『冬構え』の岡田老人を見ていて、身につまされるだけにとどまっていてはいけないと思います。
理想的な老人の生き方と死に方、家族と老人、老人と社会、子供たちの問題と老人の問題をもっともっと真剣に考えなければならないし、それが社会発展と豊かさの実現にきっとつながると思います。

冬構え

 
NHKアーカイブで『冬構え』を観た。

6年前に妻を亡くした主人公の岡田圭作(笠 智衆)はもうすぐ80才を迎える。いつかは妻と一緒にと思っていた晩秋の東北地方の旅を思い立ち、全財産を現金に替えて旅に出る。

東北新幹線古川駅を降りた岡田は、タクシーの運転手(せんだ みつお)に紹介された鳴子温泉に最初の宿をとる。最後の大名旅行を気取りたい岡田は、そこの若い仲居(岸本加代子)に気前よく2万円のチップを渡す。1万5千円の宿賃に2万円のチップをはずむ岡田に興味を持った仲居は、就寝の世話に入った部屋の金庫にある札束に行天。常々店を持ちたいと思っている恋人の板前(金田賢一)にこの老人に資金援助を頼もうかと持ち掛けるが、律儀な板前はそんなことには耳を貸さない。翌朝、岡田は次の目的地に旅立つ。

平泉では、陰に陽に自分に付きまとう上品な夫人(沢村貞子)が気になり声をかけると、明日は盛岡で落ち合うが、好き勝手にに生きてきた夫と今日は別れての一人旅だという。部屋を共にするも、亭主持ちを打ち明けられては心が揺らぐだけ。お互いに思いを秘めたままの夜は静かに更けていった。

岡田の一人旅は続く。盛岡から宮古へ。陸中海岸では、遊覧船に乗り、群れるカモメにしばし時を忘れはするが、はしゃぐ観光客には気も向かない。その後訪れた目もくらむような断崖絶壁では立ちすくみ、諦めるかのようにそこを立ち去る。

一方、厨房でのいさかいで職を辞した板前と金満老人を諦めきれない仲居は、タクシー運転手から岡田が宮古に向かったことを聞き、後を追う。そして偶然にも、断崖絶壁から帰ってきた岡田と出会い、同じ宿に泊まることになる。
若い二人は、岡田と宿の夕食を共にしながら、板前の故郷八戸に戻って店を持つ夢を語る。翌朝、若い二人の宿賃も払ってやってタクシーに乗り込んだ岡田は、見送りに出てきた二人に、新聞紙に包んだ150万円を無理やり手渡して去っていく。

八戸に着いた岡田は、ガンで入院中のかつての同僚(小沢栄太郎)を訪ねる。
積もる話の中、「すべての貯金を引き出して、一人で旅を続けている。金がなくなったらそれでいいんだ」と話す岡田に死の覚悟を見抜いた同僚は、「そんなことをしてはいけない」と諭すが、岡田は「当たり前のことを言わんでくれ」、「自分には孫が7人。私の誕生日に子供たちと孫が大勢我家にやってきてくれた。そして皆がバイバイと言ってご機嫌で帰って行った。でも私が老いて病気になり、子供たちのだれかの家に世話になるようになったら、そんな訳にはいかなくなるだろう。子供たちの家をたらい回しにされるかもしれない。しかしそのことで子供たちを恨むようにはなりたくない」と。

恐山にやってきた岡田は遺書をカバンに用意する。
「私はこの旅先で、どのようなことになろうと、娘や息子達に何の責任もないことをしかと書き残します。子供たち、孫たちは本当にようしてくれました。そして、いかなる意味でも、誰かをも恨んだり悲しんだりして、死を危ぶむものでないことを書き置きます。私は、こうした書き置きを残せる幸せを感じております。この折を逃せば、まもなく更に衰え、自らの死を決する力を失ってしまうでしょう。体や病気の命ずるままに、死を迎える他はないでしょう。私は、今までの人生を微力ながら自ら選んで生きてきたつもりです。できるなら、生き方同様、死に方も選びたい。もとより、そのような考えは、若い時なら、傲慢、神をも恐れぬ、命の貴さを知らぬ、・・・ですが、齢(よわい)80にならんとする今なら、わずかに許されるように思います。死ぬまでの何年かを病院で、あるいは子供の家で、まるで廃人のように生きなければならないかもしれないということに、恐怖を感じております。贅沢かもしれませんが、良い爺さんのままこの世を去りたいという願いを消すことができません。これは私のわがままであります。」
そして近くの絶壁から海に身を投げようとするも、足が滑ってしまい怪我をした程度で、ここでも死にきれなくて薬研温泉にたどり着く。

150万円の大金を渡された若い二人は、「お金持ちという割には履いている靴が安ものだし、着ている背広もたいしたものではない」ことが気になり、覚悟の旅ではないかと思い岡田の後を追う。そして死にそびれた岡田が投宿している薬研温泉のホテルを探し当てる。
「この金は受け取れません」と板前は、新聞紙に包んだままの150万円を返そうと差し出し、「あなたは死のうとしているのでは?」と問うと、岡田は「そうじゃーない」と一言。「金の渡し方については大変失敬した。改めてこの金は君たちに無利息、出世払いの条件で貸すから証文を書いてくれ。」といってそのままお金を若い二人に預ける。
その夜、一人になった岡田はままならない人生に泣き崩れる。

何とか岡田を助けたい二人は、板前の生まれた八戸近くの寒村に連れて行く。その家には「じっちゃん」(藤原釜足)だけしかいなくて、家族は全員が青森に出稼ぎに出ていて家に帰ってくる様子もない。
板前はじっちゃんに、自分が話しても聞いてもくれないだろうから、「死んではいけない。人間生きてることが一番だ」と岡田に諭してくれるように頼む。
翌日、若い二人が海岸に出かけた折、客が来てもろくに口もきかない朴訥なじっちゃんが、突然岡田をお茶に呼ぶ。
「孫があんたに言えという。人間、生きているのが一番だと言えと・・。そうしたことは言えねえ。ワシには人間生きていくのが一番なんて、そうした事は言えねえ。」
「しかし死ぬのもなかなか容易じゃなくて・・」
「んだ。容易じゃねえ」
「どんだ?少しここさ居てみねえか?こう見えても気心知れてくれば結構しゃべるだ・・・」
ふたりはしばらくじっと見つめあい、めったに笑ったこともないじっちゃんがうふふと笑う。岡田の顔にも笑みがこぼれ、吹っ切れたような表情が浮かんでくる。

長々と書き綴ったが、1985年に放映されたこのドラマをこの歳になってまた観てみると、当時とはまるで違った感懐に襲われ、身につまされる思いだ。観ていないご同輩にはぜひ観ていただきたいが、そうもいかない方の為に、せめてあらすじだけでもとこんなに長く書き綴ったしまった。ダイジェスト版ならここ。想いを同じくするご同輩も多いだろう。
つい一昨日(2016年6月29日)も、総務省が2015年に実施したの国勢調査の抽出速報集計結果を発表したが、それによると、総人口に占める65歳以上人口の割合が調査開始以来最高となる26.7%で、初めて総人口の4分の1を超えたという。またその数は全県で15歳未満の人口を超えたともある。超高齢化社会に突入したわけだ。
介護に疲れた夫が妻を殺害したとか、逆に妻が夫を殺害したという痛ましいニュースが最近後を絶たないが、これに近い状況で今日も悪戦苦闘している高齢者は全国に巨万(ごまん)といるだろう。
1985年といえば、その2年前の1983年、緒方拳と坂本スミ子主演の『楢山節考』がカンヌ映画祭で最高賞の『パルム・ドール』を受賞し、日本中が沸き立った。
それは単に作品の良さが評価されたからだけではなく、さほど遠くない将来に「姥捨て山」が現実になるかもしれないという予感を感じたからだし、世界にも共通認識があることを知ったからに他ならない。
この『冬構え』もそれに触発されての山田太一作品であるが、30年後の今、まさしく現実になった。
岡田老人の言うように、自らの死を決する力を失ってしまう前に、微力ながら自ら選んで生きてきた生き方と同様、死に方も選びたい、贅沢かもしれないが、よい爺さん婆さんのまま世を去りたいと願う人は多いだろう。しかし、これもまた岡田老人と同じで、死もままならないのが現実だ。
しばらく瞑想にふけるとするか。

ハーバードでいちばん人気の国・日本

 
『ハーバードでいちばん人気の国・日本』-なぜ世界最高の知性はこの国に魅了されるのか―
という本を読んだ。

1990年11月頃から始まったバブルの崩壊は、年平均賃金のピークが1997年なら、名目GDP(国内総生産)のピークも97年であるから、この1997年がピークで、爾来、日本経済は失われた10年といい、いつの間にか20年になり、今や25年に及ぼうとしている。
その間、何とか体勢を立て直そうとした矢先に起こった2008年9月15日のリーマンショック、さらには2011年3月11日に起こった東北大震災とそれに伴う福島第1原発事故は、もう泣き面に蜂どころではなかった。
国際通貨基金(IMF)によれば、2009年には中国に抜かれて世界第2の経済大国の地位をゆずり、14年には名目GDPで中国の半分になってしまうという始末。
国土全体が灰燼に帰した第二次世界大戦後から70年、奇跡の復興からバブルの崩壊とその後の低迷まで、琵琶法師が弾き語る『平家物語』がどこかから聞こえてくるような気さえする。

その日本が、世界最高峰の学び舎ハーバード大学の経営大学院で今いちばん人気のある国として紹介されているのがこの本の内容である。
著者は米コロンビア大学MBA(経営学修士)ホルダーの佐藤智恵氏。
ハーバード大学経営大学院では一学年約900人、二学年合わせて約1800人の学生が学んでいて、その多くが、いわゆる各国の要人の子女、富裕層の子女で、卒業後、各国の政財界で要職に就き、世界に大きな影響をもたらす人たちになるという。
その一年生が、毎年春になると研修旅行に参加するのが通例になっていて、行き先は、インド、イスラエル、イタリアなど約10ヶ国。その中でいちばん人気があるのが日本で、参加者募集をするや否やわずか数分で定員100名が埋まってしまうほどの人気だそうだ。
日本が人気を集めているのは研修旅行だけではなく、授業でも日本のCase Study(事例研究)は評価が高いという。
中でも、テッセイ(TESSEI;JR東日本テクノハート)の事例はすごい人気で、大学院でも企業幹部向けのコースで使われ、日本の企業文化とそのバックボーンになっている日本人の特質及び文化が集約されていて、絶好の教材になっているそうだ。
TESSEIは、皆さんもご存じだろうが、華やかな衣装に身を包んだ従業員が、わずか7分という短時間で停車中の新幹線の全車両とトイレの清掃を終わらせ、しかもそれだけではない、清掃後、従業員全員が黙礼してお客を向かえ入れるあの光景、海外でも「新幹線お掃除劇場」(Shinkansen Cleaning Theater)として絶賛紹介されているあれだ。
その他、世界が絶賛したトヨタの奇跡のマネジメント、アメリカより120年も前に先物市場をつくった日本の先駆性、明治維新と岩崎弥太郎のこと、日本人の持つ無私の精神とあくなき探求心、なぜハーバードの教員も学生も日本に魅せられ、何を学び取ろうとしているのかが熱く紹介されている。
そして最後に、日本はとてつもない力を秘めている。それは人的資本であり、日本の強みは日本人そのものだという。
⓵ OECD24か国の中でも突出した高い教育水準(今だけではない、フランシスコ・ザビエルも驚いたくらい昔から)
⓶ 自動車産業における日本人の分析的な特性
⓷ アップルのスティーブ・ジョブズが大いに影響を受けた日本人の美意識、美的センス
⓸ 人を大切にするマインドと改善の精神
⓹ 日本の風土から生まれた環境意識と自然観
⓺ 金儲けより公益を優先する社会意識
不確実性の時代を生き抜くための指針として、世界はいま一度日本から学ぶべし。そして同時に日本がこれから世界をどうリードするかを考えるヒントにもなるはずと、
いつのまにか、琵琶の音に合わせて踊りだしたくなってくる。

わたしの城下町

 
♪♪♪ わたしの城下町 ♪♪♪

心に嫌な思いがあったり、疲れていたり、日常生活に埋没して自分を忘れていたりしたとき、この曲を耳にするとふっと我に返り、心の自浄作用が始まる。

1971年、元ロカビリー歌手だった平尾昌晃が作曲したこの曲は、新進歌手小柳ルミ子によって歌われ、たちまち160万枚の大ヒット。オリコン(オリコンリサーチ株式会社が発表する音楽・映像ソフトなどの売り上げを集計したランキング)連続12週第1位はいまだに破られていないそうだ。
華麗にして数奇な運命をたどった安井かずみに作詞を依頼したディレクターが飛騨高山城のイメージを伝え、それに安井が京都先斗町の格子戸のイメージを重ね合わせてできた詩に、当時結核で信州諏訪湖畔で療養していた平尾が、同じく高山城をイメージしながら作曲して生まれたのがこの『わたしの城下町』であるという。

今ここで聞く『わたしの城下町』も小柳ルミ子のデビュー当時のもので、清純で可憐、透き通るような伸びやかな声、そして詩と曲が相まって、前奏が始まるや否や、もうかれこれ半世紀前の世界に自分をいざなう。
別世界なのだ。身や心に堆積した垢や何もかもがスーッと落ちていく。
人間、半世紀の間には得たものもたくさんあるが、失ったものもたくさんある。それらすべてが消えていくのだ。
歌手小柳ルミ子のその後の波乱に満ちた生き様を知るにつけ、歌う『わたしの城下町』も違って聞こえる。
紅白歌合戦や何かの折に耳にする『わたしの城下町』も年とともに変化し、ベテランの域に達して歌うその歌には円熟した味があって、いい歌はいい歌だ。でも、違う。
聞きたいのはやはり最初の『わたしの城下町』なのである。

人にはそれぞれに「心の城下町」がある。
それは、立派な天守閣がそびえるお城かもしれないし、石垣だけが残るお城かもしれない。
はたまた、人知れず訪れた近くの川や公園、お寺や廃屋かもしれない。
初恋に心が燃え、そのもどかしさに耐えきれず訪れた場所ならばなおさらだ。

格子戸、夕焼けの空、子守歌、お寺の鐘、四季の花々、橋のたもとにともる灯り、
どの言葉も心に染み、その澄み切った歌声からは、もう二度と帰ることができない世界が広がるから不思議だ。

梅雨も間近。今日も薄日は差すものの、向こうには大きな雨雲が広がりつつある。
テレビを見ても、毎日毎日、嫌なニュースが繰り返されている。
こんなときこそ、『わたしの城下町』を聞くと、ほんとうにホッとする。

四国88箇所を巡り終えて

 
第48番西林寺を参拝した折のこと。
高齢者がよく散歩に使う手押し車を押して境内を回っている男性に気付いた。白衣(びゃくえ)に菅笠(すげがさ)、首からは輪袈裟(わげさ)の正装をした50年配に男性である。金剛杖ならわかるが手押し車は珍しい。足でも悪いのかとその場はやり過ごしたが、お堂を回ってしばらくしたら、向こうからあの手押し車を押す男性が近づいてきた。手押し車の座席にはご母堂の遺影だろう、それを手押し車の背もたれに立てて、首からは同じような額に入ったご両親と思しき写真をつっている。途端に目から涙がほとばしり出た。とっさに事情が呑み込めたからだ。思わず男性に「お母さんですか」と言葉をかけようとしたが言葉にならない。一瞬男性もびっくりした様子だったが、すぐ眼鏡の奥に涙が見えた。ともかくご母堂の遺影に合掌させていただいた。
「えらいですねぇ。」、「いえいえたいしたことありません。」、「誰にだってできることではない。僕なんかには到底到底できないですよ。」、「せめてもの親孝行です。もう手遅れですがね。」、「いや、そんなことはない。いい息子さんを持ったもんだ。」・・・、まだ涙が止まらない。
ご母堂はずっとこの四国巡礼を願ってきたがそれも果たせず昨年お亡くなりになったという。お父さんはご存命だが、寝たきりだそうで、生前には仕事仕事でたいした親孝行もできず、やっとこの連休に休みが取れたので、せめてもの親孝行をしたいとこの巡礼を思い立ったとのこと。

ぼくの場合、前の西国33箇所巡りもそうだったが、たいした信仰心を持っての巡礼ではない。「巡礼」という言葉を使うのもおこがましいくらいだ。
前回の西国33箇所巡礼は、たまたま書店で手にした納経帳のイラストに触発された巡礼だったし、今回もその延長線上にあって、巡礼といえば日本ではこの四国88箇所だろうという、なんともそこらのミーちゃんハーちゃんにも引けを取らない軽々しい動機だ。
しかし、おそらくこの「巡礼」という言葉に惹かれるものがあるからだろうとは思う。
巡礼は信仰心を持っての旅だが、若山牧水の、
  幾山河 越え去り行かば 寂しさの 果てなん国ぞ 今日も旅行く
また、種田山頭火の、
  この旅、果てもない旅のつくつくぼうし
と歌った歌や俳句にも隠された信仰心が読み取れる。
常に死と向き合わなければならない人間の業をいかに断ち切るか。御釈迦さんもそうだし、弘法大師もそう、そもそも仏教起こりの根源はこの人間の業をいかに断ち切り、安らかな死を迎えるかにある。
牧水が「寂しさ」と表現したのもそうした寂しさであり、山頭火がお盆を過ぎてつくつくぼうしが鳴き始めても「果てもない旅」が続くと表現したのも同じ心境だ。
牧水や山頭火だけではない。古来多くの詩人が漂白の先々で歌った歌もそうだ。
  都をば 霞とともに 立しかど 秋風ぞ吹く 白河の関
と歌った能因の歌を受け、
  白河の 関屋を月の 漏る影は 人の心を 留むるなりけり
と歌った西行。その西行に限りなく傾倒した芭蕉は、「月日は百代は過客にして、行きかう年も又旅人なり。」で始まる『奥の細道』で綴った旅立ちも当時初老46歳であった。
思うところは結局はお遍路も同じなのだ。

四国巡礼の白衣はまさしく死に装束で、巡礼途中でいつ何時死を迎えるかもわからない、その準備のための装束だし、昔はそうして行き倒れになったお遍路も結構いたそうだ。
もともとは弘法大師空海の事績を辿り、修行僧が始めたのが起こりで、江戸時代くらいから一般人も加わって今に至っているそうだが、全行程1000㎞から1400㎞に及ぶ道のりを、歩いて辿る人、車で辿る人、ツアーで巡る人、人さまざまだが、歩いて巡る「歩き遍路」にたくさん出会ったのにはびっくりした。
皆が皆死と向き合っての巡礼ではもちろんないだろう。心身を鍛えるため、自分探しを求めて、グルメと温泉を求めて等々、今行く先々で出会う人たちの目的は様々だ。しかし、突き詰めれば結局「死」との対峙だ。

第75番札所善通寺では宿坊の恩義にあずかった。
朝には、5時半からお説教から始まって、今でも生き続けるお大師様の朝ごはんの勤行、それが終わると何とも奇妙な体験をした。戒壇巡りだ。長野の善光寺でも同じような戒壇巡りがあったが、時間の都合で参加できなかったから初めての体験になる。御影堂地下の真っ暗闇の中、約100mの距離を左側の壁に手を添えながら、「南無大師遍照金剛」を唱えながら進む。本当に真っ暗だ。この暗闇の中で仏様と縁を結び極楽往生のお約束を頂くわけで、一昔前は経帷子(きょうかたびら)を着て草鞋(わらじ)を履き、手には白木の念珠ををするというまさしく死出の旅路姿で巡ったというから、やっと見えた光明は黄泉の世界を連想させたのかもしれない。

4月27日、第1番札所霊山時から始まった四国88カ所車の旅は、5月3日第88番札所医王山大窪寺で結願(けちがん)かなったわけだが、冒頭に紹介した孝行息子が今回の巡礼で一番印象に残った。
今度はゆっくり死に装束に身を固めて真の意味の巡礼に赴きたいと思う。

  
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今年のさくら 2 ― 2016 ー

 
じっとしていられない。前回に引き続き「今年のさくら」。
桜の咲き始めに罹ったインフルエンザがその後も尾を引き、桜を訪ねての狂い歩きは今年はだめかと諦めていた。
仕方なく、近くに買い物に出かけた折や早朝散歩の折にしか桜を見る機会がなかったわけだが、灯台下暗しとはこのこと。その先々で見る桜のなんと多くて美しこと。道の両側に街路樹のように植えてある桜が道を覆いかぶさっていたり、雑木林の中に突然目を見張るような桜の古木が枝もたわわに花を咲かせていたり、児童公園やちょっとした家の庭先にも桜が咲いている。いたるところ桜だらけだ。心がワクワクしてくるから不思議だ。

それでもそれでも。
ちょっと元気が出て出てきたので、じっとしていられない。
今年訪れたのが紀州和歌山の岩戸市にある根来寺である。
開花は例年通りだったそうだが、花冷えが続いたおかげで満開まで少し時間がかかり、訪れた4月6日は咲き切って、少しの風にももう桜吹雪だ。実にいい時に来た。
根来寺は、大阪の南、昔泉州と呼ばれた地域にある泉南市から、風吹峠、いい響きの峠だね、このなだらかな峠を、今はすっかり立派な道ができていているが、越えるとすぐのところにある。噂に違わぬそれはそれは立派なお寺だ。
なんでも、平安時代後期、高野山の僧で空海以来の学僧といわれた覚鑁(かくばん)が1140年に開山し、戦国時代には根来衆といわれる僧兵1万を率い、大きな勢力を誇った大寺院で、早くから種子島伝来の鉄砲隊を組織し、織田信長とは協力関係にあったものの、豊臣秀吉には敵対して敗れ、大塔・大師堂などの2~3の堂塔を残して全山消失。江戸時代に入って、紀州徳川家の庇護のもと一部が復興されたという。
36万坪という広大な境内に咲き誇る桜はなんと7000本といわれている。
境内の広さ36万坪(119万㎡)は甲子園球場(3.85万㎡)のおよそ31倍、東京神宮外苑(70万㎡)の約1.7倍、桜の数7000本は全国の17位というからその壮大さを窺い知ることができよう。ちなみに全国第一位は奈良の吉野山3万本は全山あげての数だし、お花見人出No1の東京上野恩賜公園は800本である。
大寺の表門にふさわしい大規模の二重門になっている「大門」をくぐると、そんなに多い桜だが、境内が広いものだからひしめき合っているという風ではなく、秋は紅葉でこれまた見ものという青い新芽を出しかけた楓と所々に林立する杉の巨木が程よく混ざりあい、淡い淡い桜のピンクと言いようのないコントラストを生み出している。
広い境内には高い杉木立の中にさらに桜に取り囲まれてたくさんの重要文化財、県指定文化財の建造物が散在していて、境内の真ん中を流れる大谷川の渓流沿いには遊歩道が設けられ、春休みの子供たちが戯れ、石造りの縁台にはお年寄りや家族連れがお弁当を開いている。
そこにまた一陣の疾風と桜吹雪。今日を限りの桜の命だ。
聖天池に浮かぶお堂「聖天堂」は、水面を覆いつくした桜の花びらに浮かぶ幽玄のお堂だし、桜の雲海から高く抜け出た高さ40mを誇る日本最大の木造建築、国宝「大塔」の白い巨大な漆喰には、豊臣と戦った時にできた鉄砲の弾痕がいまだに残っているという。
歴史を刻み、歴史を生き抜いたこのお寺には今や桜が咲き乱れ、訪れる人々に無上の安らぎを与えているが、これまた諸行無常のことわりを具現した光景だ。

さくら、さくら、桜に酔い痴れる日本人は幸せだ。自分もそのうちの一人。
今日を限りの桜の命を受け継ぎ、もうそこに迫ったまたあの夏の酷暑を凌げる勇気も湧いた。

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今年のさくら ― 2016 ー

 
今年は風邪ひぃてしもてな、桜もすっかりわやや。
そうでんね。これから桜も咲こうかいう矢先に、インフルエンザB型にかかってしもうてな。桜どころやあらへん。
それにしても、インフルエンザちゅうやつはきついでんな。しんどい、しんどい。そりゃしんどいでっせ。
熱が急に39度ほどに上がってな、さっそくお医者はんに見てもろたんやけど、お薬もろて、一度は36度くらいに下がったんやけど、しばらくしたらまた38.5度ほどに上がってな。
これインフルエンザの二峰性いうて、みんながみんないうわけやないけど、ピークが二度くるんやて。
わてなんか教科書どおりや。
それにしても、今日びのお薬いうたらよう効くは。
なんでも「イナビル」というお薬やったんやけど、処方箋薬局で1回吸い込むだけで効きまんねやて。
そやから、今までは「タミフル」や「リレンザ」いうお薬が主流やったそうやけど、2010年にでけたこの「イナビル」というお薬が一気に使用されるようになったんやて。
インフルエンザに罹って48時間以内やったら効果があるんやそうな。
わても48時間以内に飲んだから、ひどいことにならんで済むだんやてお医者はんが言うたはりましたけど、歳が歳やさかい、風邪が治ってからもなかなかしゃんとならへん。
大相撲の春場所でもお相撲はんが、たしか二人やった思うんやけど、場所中にインフルエンザに罹りはった。そやけど、えらいもんやが、3日休んだだけでまた出てきやはった。
日ごろから鍛えたはるからやろな。わてら、インフルエンザに罹ってからもう3週間は経つというのにえらいえらい。何をすんのもいやや。寝てばあっかり。
おかげで見たいいう桜も見られへん。そんな今年の桜でしたわ。
そやけど、日本はつくづくええ国や思いましたな。
桜の見どころもそりゃええ。そやけんど、ちょっとそこらへんに出歩いても、今時分どこにでも桜が咲いてる。小さな家の庭先にも立派な桜が咲いてる。
元気出まんな。それになんちゅうても綺麗がな。こんな綺麗な花、世界中どこ探してもおまへんで。

今回はなんや知らんけど大阪弁が恋しゅうてな。NHKの「あさが来た」のせいでっしゃろか。
そやけど、考えてもみなはれ。昔、大阪は上方や。京都や大阪が日本の中心やった。
言葉も大阪弁が標準語やなかったらあかんはずや。
いうたかて、やっぱりこの大阪弁ではまどろっかしすぎて、仕事もすすみまへんわな。しゃあないか。
昔、イイデス・ハンソンいうて、大阪弁の上手い外人の女子はんがいはりましたわな。知ったはりまっか。まだ生きたはりまんのやろか。
わての知ってる外人さんも、大阪弁好きや言うたはります。人情があるんやて。人の温もりを感じる言うたはりま。わかんのやろか。
これからぎょうさん外人さんも来はるやろから、みんなであんじょようしてあげまひょな。

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ホットジャパン

 
昨日、2015年3月30日、『政府、訪日外国人目標を一気に倍増 2020年=4000万人、2030年=6000万人』という見出しが出た。
安倍首相が3月30日、訪日外国人観光客の拡大に向けた具体策をまとめる「明日の日本を支える観光ビジョン構想会議」で、訪日外国人観光客数の目標人数を倍増させ、2020年に4千万人、2030年に6千万人とすることを宣言した。
訪日外国人観光客数が昨年2015年にはすでに1974万人に達しており、2020年の東京オリンピック開催年の目標値の2千万人を大幅に前倒したわけだ。

日本経済は長年、高い技術力を背景に製造業が牽引してきたが、近年は新興国の攻勢にさらされ、株価もITバブル時の高値20833円(2000年4月12日)から下がり続け、途中、2008年9月15日のリーマン・ショック(国際的な金融危機)、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震とそれに伴う福島第一原発事故などもあり、やっと第2次安倍内閣が発足した2012年12月以降、「アベノミクス」への期待から2年半で株価も約2倍の20868円(2015年6月24日)にと、ITバブル時から数えて実に15年ぶりに株価も回復した。しかし、その2か月後には8月11日のこれまでの最高値20940円を付けたのちはまたまた下落に転じ、12月1日には一時2万円台は回復したものの長続きはしないで、現在は1万7千円代を行ったり来たりしている状態である。
アベノミクスが打ち出した経済成長戦略の第一ステージ、旧「3本の矢」は「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「投資を喚起する成長戦略」の3つであるが、このうち日銀の協力を得た金融緩和は円安・株高でアベノミクスの基盤を築き、一定の成果を上げたものの、財政政策は一時的な刺激策で評判はいまひとつ。市場が期待していたのが「道半ば」と言われ続け、ここ1年は頭打ち状態。15年10月に予定していた消費税率10%への引き上げを1年半延期し、17年4月とすることが確定。「景気条項」を削除し、景気情勢次第でさらに先送りできなくなるとしたものの、ここにきて景況判断と夏の参院選対策から再延期もうわさされる始末。新聞各紙もまるで再延期が決定されたかの書きっぷりだ。

そこで打ち出されたのが、アベノミクス第2ステージ、新たな「3本の矢」が、(1)希望を生み出す強い経済(GDP600兆円)、(2)夢を紡ぐ子育て支援(出生率 1.8人)、(3)安心につながる社会保障(介護離職ゼロ)なのである。

昨日の宣言はまさしくアベノミクス新三本の矢の内の(1)、首相が掲げる名目国内総生産(GDP)600兆円の達成に向け、観光立国をその起爆剤にしたい考えを打ち出したわけだ。
日本を代表した企業が、SHARPは台湾企業に買収され、東芝はでたらめ会計も手伝ってボロボロ、SONYはアップアップなど。自動車産業だけは業績を伸ばしているものの、これとていつまで続くやら。
ここで目を付けたのがクールジャパン(格好いいニッポン)で表せられる日本の映画・音楽・漫画・アニメ・ドラマ・ゲーム・カラオケなどの大衆文化の世界的進出。今や日本文化は世界を席巻し、その影響もあってか日本を訪れる外国人は上に示したように鰻上り。中国人観光客の「爆買い」の話題は尽きず、世界から、そして今では東南アジアのさまざまな国から観光客が押し寄せる。これを放っておくのはまさしく「もったいない」。
日本は「気候」「自然」「文化」「食」という観光先進国の4条件がそろっている。政府としては観光産業のてこ入れを図ることで円高株安の打撃を受けにくい筋肉質の経済への転換を図りたいと考えたわけだ。
首相は会議で「観光は成長戦略の大きな柱の一つであり、地方創生の切り札だ。世界が訪れたくなる日本を目指し、観光先進国という新たな高みを実現していく」と述べた。
首相が掲げる新三本の矢「名目GDP600兆円」「希望出生率1.8」「介護離職ゼロ」のうち、子育て支援や高齢化対策などの社会保障制度改革は政策効果が出るまでに一定の時間がかかる。一方、観光はインフラ整備からサービス業まで裾野が広く、景気回復へ即効性が期待できると判断したわけに違いない。

政府、安倍首相の意図はともかく、世界から日本にやってくる人たちが増えることに異存はない。
これまでの日本への関心の大部分は、1968年、戦後23年にしてGDP世界第2位になるというその経済力が中心だったわけだが、今やクールジャパン、つまり日本の伝統に深く根差した文化によって、世界の人々を招来しようとするわけだから、共感と信頼を得ればこれほど安定した成長力はないし、世界の平和と安定に寄与するものはない。

ところで、これだけ日本に注目が集まり、訪日外国人数が増えているとはいえ、2014年度における「世界各国・地域への外国人訪問者数」の統計を眺めてみると、1位のフランスが8400万人、2位アメリカが7500万人、3位がスイスの6500万人で、日本は1350万人で世界22位なのである。そしてアジアでも7位というから驚きだ。もちろん2015年には訪日外国人数が激増して2000万人にちょっと足らずというところに来たわけだから、これで、韓国1420万人、マカオ1450万人を抜いてアジアでは4位、タイの2500万人に次ぐことになる。
2030年の目標値6000万人は、アジアNo1の中国5500万人を多分に意識した数値目標であるところが面白い。
いずれにしろ、外国人訪問者数だけでは、世界で注目される国の度合いは計れない。クールジャパンは今や世界の標準語になりつつある。
世界の最東端、極東に位置する日本はあらゆる意味で世界から最も遠い国であったわけだが、今や交通手段はひと昔前に比べても世界を縮め、もう日本は遠い国ではなくなった。
日本の経済力だけではなく、日本の風土と文化に関心を持って訪れる外国人は本物だ。大切におもてなししたいし、期待にたがわない文化をさらに発展させたいものだ。